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1917年英仏軍位置要図。参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察 (第三巻)』7頁。

1916年度の作戦は大戦の終了を見ずしておわった。英仏軍はソンムとヴェルダンの戦いで辛くも勝利したが、それはおそろしいほどの犠牲を伴ったものだった。

1916年11月16日、連合国の軍事代表者はシャンティイで来年の作戦をどうするのか話し合い、つぎのように決定した。

1.戦争の終局は、1917年春季の連合軍の全力をもってする協同攻撃によりこれを決定する
2.英仏軍は西部戦線において強力な攻勢に出る。サロニカの連合軍部隊とロシア・ルーマニア軍部隊ができるかぎりはやい時期に攻勢に出てブルガリアを脱落させ、中央同盟国を分断する。これに呼応してイタリアもイソンゾ正面で攻勢に出る
3.ドイツに先制し不意をつくため、なるべく1917年2月前半までに攻勢準備を完了する1

これに基づき、ジョフルは西部戦線における英仏連合作戦の計画を策定した。それは「フランス軍がソンムとオワーズで攻勢に出て、ときをおなじくてイギリス軍がバポームとヴィミーにおいて攻勢に打って出る。それにより敵部隊の全面崩壊をめざす」というものだった。

会議がおわったのち、英仏の指導者に劇的な変化が起ころうとしていた。

一つは、アスキス首相の退陣である。優柔不断なアスキスにかわり、12月ロイド・ジョージがあたらしい首相として就任した。ロイド・ジョージはたった5人からなる戦時内閣を組織し、イギリスはついにフランスと変わらないほどの戦争体制を整えた。ただヘイグはロイド・ジョージのことを「策謀好きで信じるに足らない」と見なしていたし、ロイド・ジョージはロイド・ジョージのほうでヘイグのことを「不毛な戦略家」と見ていた。

戦略構想においても、ヘイグとロイド・ジョージは意見を異にしていた。

ヘイグは西部戦線で勝つことこそ大戦の勝利につながると信じており、西部戦線に総力を結集するべきと考えていた。これに対し、ロイド・ジョージは、西部戦線に総力を結集するべきと考えておらず、西部戦線以外の、たとえばイタリア戦線、中東戦線やサロニカ戦線のような敵が比較的弱い地域で攻勢に出れば結果的に優位に立てると考えていた。かれから見れば、ヘイグとジョフルが練っている作戦は1916年の焼きまわしにすぎず、消耗戦が再現されるだけなのである。

12月にさらに動揺が起こる。ジョフルが指揮官から外されたのだ。マルヌの英雄ジョフルも1915年の作戦はパッとせず、ヴェルダンの防備を疎かしてヴェルダン戦初期でフランス軍が劣勢に立たされたのはかれの威信を大きく低下させた。フランス首相ブリアンはジョフルを指揮権のない名誉職に追い出したうえで、元帥に昇進させた。

ジョフルにかわってフランス軍総司令官に抜擢されたのがヴェルダン戦の英雄ニヴェルである。2

戦争がはじまったとき、ニヴェルは一介の大佐でしかなかったが、旅団長を皮切りに、1915年のはじめには師団長、おわりには軍団長となっていた。かれは砲兵をあつかうのがとてもうまく、移動弾幕射撃をたくみに用いた。かれの名声を高めたのが1916年5月からの第2軍司令官時代である。ヴェルダン方面の担当となったニヴェルは、ドォーモンとヴォーの堡塁の奪還に成功した。

ジョフル案を否定するニヴェルは48時間以内にドイツ軍陣地を打ち破ってみせると豪語し、ソンムやヴェルダンの二の舞になるのではないかと思いなおも慎重な政治家には、もし二日以内に成功しないなら攻撃を中止すると約束した。ペタンやフォッシュは破滅的な結果になると反対したが、暗闇のなかに光明を見いだしたフランス政府はニヴェルに任せることに決めた。

あとはイギリス側への説得である。

ヘイグがフランダース攻撃を考えていることを知ったニヴェルは、1917年1月ローマの連合国戦略会議から帰国途中のロイド・ジョージに直接会ってみずからの構想を語ってみせた。陰気で舌足らずのヘイグとはちがい、ニヴェルは快活で、話し上手で、英語も堪能である。ロイド・ジョージのほうはといえば、イギリスの将軍はフランスより劣っているのではないかと疑っていた。そこへニヴェルがあらわれた。大戦に最終の決を与えるという見かけでは非の打ちどころのない提案を言葉たくみに語るニヴェルに、ロイド・ジョージは魅了されていった。

2月には、ニヴェルはイギリスに直接わたりイギリス側の承認を得た。さらにおなじく2月のカレーの英仏会議で、ニヴェルはイギリス軍の総指揮権をフランス側に移譲するよう提案した。ロイド・ジョージはこれに同意したが、ヘイグは猛反発した。パッと出のやつがでかい顔して、しかも自分の頭ごしに首相と交渉しておいていい感情を持つわけがない。3月のロンドンの会議では「フランスにいる全イギリス軍部隊はイギリスの総司令官の命令下にある」という妥協案が出され、ニヴェルはヘイグをとおしてのみイギリス軍部隊と交渉するものとされた。ニヴェルの攻勢には協力するのの、事実上ヘイグは要求をはねのけたのである。


1916年おわりから1917年はじめの英仏交渉はいくつか問題を生んだ。一つは、イギリスの政軍関係が急速に悪化したことである。ヘイグとロイド・ジョージはもとから仲がいいとはいえなかったが、ニヴェルがかき乱したおかげで二人の仲に亀裂が走った。二つ目は、交渉が長引きすぎて肝心の作戦の実施がおくれたことである。ニヴェルは1917年の2月上旬には作戦を開始したいと考えていたが、4月はじめまで延期せざるを得なくなった。




●イギリス軍の準備

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英仏軍春季攻勢計画要図。参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察 (第三巻)』74頁。

ニヴェルの攻勢計画では、イギリス軍と北方軍集団がソンム地域において牽制攻撃をおこない、中央軍集団が助攻をおこなう。そして予備軍集団がエーヌ地区から奇襲をかけて敵防御の全面崩壊を目指すことになっていた。2月から3月にかけてのドイツ軍の局地的撤退とその後のドイツ軍防御の増強の兆候にもかかわらず、ニヴェルは計画を強行した。

今回の攻勢でのイギリス軍の役回りは“フランス軍の主攻に先立ち、ドイツ軍部隊を牽制・抑留するためアラス方面にて攻勢を仕掛けること”である。アラス付近に陣地を占領する、ファルケンハウゼン率いるドイツ第6軍の6コ師団に対し、ホーンの英第1軍、アレンビーの英第3軍、ゴフの英第5軍、計14コ師団が用意された。北がホーン、中央がアレンビー、南がゴフである。

アラス近辺はスカルプScarpe川に南北を分断されている。北には、重要な高地としてヴィミーリッジがあり、ドイツ軍が拠点を構えていた。南には、Monchyの山があり、これに沿ってヒンデンブルク線が構築されていた。そのほか重要な地形として古き城塞都市アラスがある。アラスは前線の塹壕から2キロほどしか離れておらず、地下にはトンネル網が整備されていた。アラスに位置するアレンビーの第3軍は、地下に簡易な鉄道網さえ敷いていた。アラスの地下網により、3万名にちかい兵がドイツ軍の観測・砲撃を受けることなく突撃地点まで前進できた。アラスの北、ヴィミーリッジ付近でも、ドイツ軍の観測をさけるためカナダ軍団が12コの大トンネル網を作っている。

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アラス付近の図。Anglesey, 75.

アラス攻勢でのイギリス軍は、牽制攻撃だけでなく、あわよくば大突破も目論んでいた。ホーンの第1軍がヴィミーリッジを占領して側面を防護し、その間にアレンビーの第3軍がMonchy le Preux付近の高地を占領し、そこからさらにカンブレーに向かい突進するのである。この目的のため、第3軍には騎兵軍団が与えられた。これは騎兵の物語であるから、われわれは騎兵軍団が配属されたアレンビーと第3軍に注目しなければならない。

サー・エドモンド・アレンビーは、ヘイグとおなじくイギリス騎兵史の重要な人物である。1917年当時、56歳。ヘイグと同世代である。軍歴もまたヘイグと似ていて、南アフリカの植民地戦争で実戦を重ね、1910年ヘイグのあとを継いで騎兵総監となった。1914年、世界大戦勃発するや騎兵師団を率いて海を渡った。拡大する軍隊に対応するようにすぐに騎兵軍団長になり、1915年5月に第5軍団長、10月には第3軍司令官になっている。イギリス軍内でもっとも騎兵に精通した将軍と言ってもいい。ただ、軍団長時代に第1次イーペル戦、第2次イーペル戦に参加していたものの、軍司令官になってからソンム戦初日の陽動攻撃ぐらいしか参加しておらず、今回のアラス戦が実質的にはじめての軍レベルの作戦であった。

アレンビーは並々ならぬ攻撃精神の持ち主である。これがゆえに、第5軍団長時代には犠牲多きいくさをする将軍だとして兵に嫌われてさえいる。アラス作戦でも、少なくとも戦術レベルで奇襲が可能であると信じており、なし得れば作戦レベルでの奇襲も考えていた。攻撃準備を隠し、準備砲撃は48時間にかぎり、短いが強烈な砲撃をおこなう。この衝力と奇襲のコンビネーションにより、突撃部隊がすみやかに敵陣地を突破し、さらに騎兵軍団による追撃により、その先の陣地のないひらけた土地へと導くことができるとアレンビーは信じていた。

攻撃部隊は陣地戦のくせをすて、運動戦を意識しなければならない。のろのろとした前進は敵の増援の到来を招く。砲兵もまた歩兵とおなじように軽快に行動しなければならない――こうしたアレンビーの命令は、前年ソンム戦のローリンソンと対照的である。

このアレンビーの作戦構想はヘイグ好みのものであった。ただ、ヘイグは大筋で同意しながらも、陣地戦における突破作戦のむずかしさをもっと深刻に考えていた。ヘイグの見るところ、アレンビーの構想は野心的すぎたのである。奇襲のねらいを台無しにしてしまうかもしれないためアレンビーは反対したが、48時間の準備砲撃は2倍の4日間に変更された。1917年のヘイグは、小突破の手法を考慮するようになってきており、攻撃初日に占領した地点を敵の反撃と砲撃から守るため防御を固める必要があると思うようになっていた。3


第3軍のもとに置かれたキャヴァナ率いる騎兵軍団の任務は、アラス・カンブレー道を東進しRiencourt-Cagnicourt-Dury-Etaingの線まで進出することである。正面8キロ、攻撃開始線から16キロ先である。この前進は、攻撃開始後のさいごの瞬間、すなわち歩兵がMonchy le Preux(攻撃開始線から6.4キロ先)を占領下に置き、さらに左右の側面防御を固めたとき、予定では攻撃開始から8時間後におこなわれる。

この騎兵の任務は、表面上前年のソンム戦と似ている。しかし前年とはちがい、敵線後方に縦深にわたり追撃をおこなうことはあまり議論になっていない。さらに騎兵軍団は作戦の進展にともない、タイムテーブルに沿って前進することになっていた。歩兵が前進するやその後方の騎兵も前進することになっており、最終的に歩兵がMonchyまで進んだとき、騎兵は攻撃開始前のドイツ軍前線陣地まで進出することになっていた。これは大きな進歩である。

指揮統制は残念ながら前年から変わっていない。騎兵軍団はタイムテーブルに沿って前進することになっていたが、最終準備地点から「騎兵前進!」の命令を下すのは第3軍なのである。第3軍を通して騎兵軍団が配下の騎兵師団に前進の命令を出す。この命令が伝わるまでの時間のロスは深刻なものになるにちがいなかった。騎兵軍団への作戦命令には、場合によりスカルプ川北側に投入されることがある得ることを明示しており、そのこと自体は流動性を意識した健全なものであったが、命令伝達の長さは作戦変更を実質不可能にしていた。

混沌とした前線の補給は一大問題であった。歩兵は三日分の弾薬を持たされ、重量をへらすため外套を置いて出撃するよう命令を出されている。歩兵といっしょに前進する騎兵もおなじである。三日分の弾薬にくわえて約8キロの三日分のオート麦を持たされた。作戦開始前に飼料の量が改善されつつあったとはいえ、このような過重の荷物は栄養不足の馬にとってきついものがあった。

肝心の騎兵軍団なのであるが、このとき2コ騎兵師団しかいなかった。第1騎兵師団は第1軍のヴィミーリッジ攻撃支援に回され(のちに総司令部予備に変更)、第4騎兵師団は第5軍のBullecourt攻撃支援に派遣され、第5騎兵師団は総司令部予備として控置された。騎兵軍団には、臨時に加えられた第17歩兵師団と、第2騎兵師団および第3騎兵師団しかいない。2コ師団の機動戦力で“すき間への突撃”をおこなわなくてはならないのである。騎兵にとって正念場であった。




●第3軍の作戦――4月9日――

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4月9日、移動中のイギリス歩兵。© IWM (Q 5119)

攻撃は砲声とともに始まった。

今回のイギリス軍は重砲963門をふくむ2827門もの火砲を準備しており、前年で不調だったヒューズや大量の不発弾も改善されていた。重砲がドイツ軍後方地域の砲兵と増援を叩き、そのあいだ中砲が敵の鉄条網と塹壕を砲撃する。歩兵が前進を開始するや移動弾幕でこれを防護し、さらに間接機関銃射撃や軽榴弾砲の砲撃により二次的な弾幕を形成した。

第1軍、第3軍、第5軍による歩兵攻撃は4月9日よりはじまった。

北の第1軍方面では、綿密な歩砲協同のもとカナダ軍団が一日でヴィミーリッジを占領した。損害11,000名、捕虜3,600名を取り、砲36門を分捕った。この攻撃手法、すなわち詳細に攻撃計画を決めて力攻めをおこなう「全力攻撃set-piece attack」4で、前年のソンム戦とは比べものにならないほど戦闘効率が増したことをイギリス軍は証明した。ただ、スカルプ川北側のドイツ軍部隊は弾性防御を採用しておらず、前方に重要な戦力を集中していたことも見逃せない事実である。


中央部の第3軍による歩兵攻撃は4月9日5時半に始まった。

第3軍配下の3コ軍団が攻撃をおこない、スカルプ川北側を攻撃する英第17軍団は初日で5キロも前進した。スカルプ川南側の中央部、英第6軍団はドイツ軍の前線陣地を突破したものの、オレンジの丘Orange Hill付近で前進を阻まれ、Monchy le Preuxまでたどり着けなかった。

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4月9-12日、英第6軍団の攻撃要図。OH, 1917, vol. 1, Sketch 9.

騎兵軍団はなにをしていたかというと、4月に入り冬営地を発するや、8日にはアラス西10-20キロの地点まで進出していた。当日の9日は作戦の進展にともない、第2騎兵師団はRonville郊外、アラス南東の前線にほどちかい場所に9時半までに進み、第3騎兵師団は10時までにアラス北西のレース場に進んでいた。

そこから「騎兵前進!」の命令が第3軍より下る。14時半までに騎兵軍団司令部は電話で命令を受け取り、すぐさま両師団に電報を送った。両師団は急ごしらえで作られた騎兵道を通りイギリス軍の塹壕を乗り越え、ドイツ軍の前線塹壕手前まで前進した。16時ごろのことである。ここから追撃をおこなうかと思いきや第6軍団の攻撃が進展せず、前進は不可能であった。20時20分、騎兵師団に後退命令が出され、むなしくアラスの野営地まで撤退した。

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アラス・カンブレー道の脇でやすむイギリス騎兵。© IWM (Q 2032)


追撃の機会はスカルプ川南側ではなく、北側で起きていた。9日午後のミーテンングで、アレンビーはヘイグに第1騎兵師団の1コ旅団を第17軍団支援に使えないか聞いた。同師団は総司令部予備としてアラス北西10キロの地点に控置されており、すでに第1軍のカナダ軍団を支援するよう指示を受けていたがまだ行動に移っていなかった。ヘイグは同意し、1コ旅団を分派させることにした。

16時15分ごろ、総司令部は騎兵軍団司令部へ「第3軍へ1コ旅団を派遣する」命令を電話で伝え、騎兵軍団司令部を通して第1師へ警戒命令が発せられた。16時55分、騎兵軍団司令部は総司令部の確認の電報を受け取ったが、そこから第1師に伝えなかった。そのかわり、第1師は総司令部から直接確証を得た。ただ師団がそれを得たのは18時15分で、もはや行動するには遅すぎた。

このとき第1騎兵師団は総司令部予備だったのだが、いまだ名目上騎兵軍団の指揮下にあったという状態で、命令伝達は奇妙な回り方をした。おまけに第3軍の作戦命令では、騎兵軍団の投入をスカルプ川北側に変更することも考慮されていたが、アレンビーは忘れてしまっていたようである。

スカルプ川北側の第17軍団の指揮官たちは追撃の機会が失われたことに失望した。騎兵将校でこのとき第12歩兵旅団を指揮していたCarton de Wiartはこう回想する。「もし騎兵が投入可能でさえいれば、もっと多くの捕虜と、もっと多くの価値ある土地を取ることができただろう。しかし実際には、後日われわれに対し使われることになるであろう火砲が後退していくのを見た」。5




●第3軍の作戦――4月10日――

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アラス・カンブレー道の脇で休むイギリス騎兵。© IWM (Q 2031)

第3軍は攻撃初日の最終目標まで到達していなかったが、アレンビーは戦闘の経過に満足していた。かれは、もっと前進し初日の成果を拡張しなければならぬと意気込んでいた。

第3軍は、配下の3コ軍団に対し翌日の攻撃を8時より開始する命令を出す。騎兵軍団には、23時半、翌日7時にこの攻撃を支援するために移動の準備ができるよう命令が出された。ところが右翼の第7軍団はいまだ戦闘中で、時間を遅らせるよう要請してきた。結果、攻撃開始時間は正午の12時に変更となった。この報せは、10日4時10分、騎兵軍団司令部に電話で通達された。“すき間への突撃”の貴重な時間が減ったのはあきらかであった。

ただ、攻撃時間のおくれは騎兵軍団の2コ騎兵師団にとって幸いであった。両師団は10日早朝にいたるまで野営地まで退却できていなかったのである。第5騎兵旅団の記録するところによれば、かれらの最後衛たる騎砲兵のE中隊などは5時半にいたるまで野営地に撤退していなかった。

天候の悪化はよりいっそうの苦難を兵に与えた。9日の昼間は寒いが良好な天気だったのにもかかわらず、夜になると急激に悪化した。嵐が舞い、みぞれと雪が入り混じって降る。道路はぬかるみになり、兵は凍え、馬は雪で足を痛めた。


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Monchy付近の図。Anglesey, 82.

10日、騎兵軍団は、配下の2コ師団をふたたび前線へと送らせた。第3騎兵師団は、即時目標をMonchyとして、カンブレー道の北を前進する。第2騎兵師団のほうは、Wancourt-Feuchy陣地の南端の背後、ヒル90に向かってカンブレー道の南を前進することになった。命令は10日の早朝電話で伝えられ、11時45分、騎兵軍団作戦命令として正式に承認された。

11時ごろ、カンブレー道の北の第3騎兵師団は、騎兵軍団司令部より電話を受けた。「第37師団の歩兵がMonchy le Preuxに散見されるので、第3騎兵師団は先導旅団を発進させるべき」との指示を受け、師団長は第8騎兵旅団をMonchyの北へ、第6騎兵旅団をMonchyの南へ前進させることに決めた。のこりの第7騎兵旅団はこれを支援する。これらの移動は14時半ごろより開始された。

第3騎兵師団の部隊は歩兵と接触し、どうやら第37師団はMonchy le Preuxの西口にいることを知った。15時50分、騎兵軍団長キャヴァナは電話にて口頭命令を出す。師団はすみやかに前進し、リスクを取るべしと。

一方、肝心の第37師団の攻撃は17時までに停滞しつつあった。攻撃する歩兵に対し、Monchyだけでなくスカルプ川北側のRoeuxおよびMount Pleasantより猛射撃を浴びていたからである。17時20分の第3騎兵師団から騎兵軍団への報告では、「われらの歩兵はMonchyを占領していない」としている。

攻めあぐねる第37師団は第3騎兵師団に対し、村の北側Pelves Mill付近の坂へ乗馬攻撃を提案した。この付近の敵機関銃射撃が歩兵の前進をどうしても妨げてしまうからである。本来“突撃”は敵部隊におこなわれるのに対し、敵情もわからぬ不明な地形に突っ込むのである。無謀としか言いようがない。

18時に第8騎兵旅団の2コ中隊が果敢に挑戦した。だがやはり機関銃と火砲に阻止されて撃退されるも、突然の吹雪がかれらをおおい隠してくれ、幸運にも少ない損害で後退することができた。第8騎兵旅団が突撃した同時間に、第6騎兵旅団もMonchyへの歩兵攻撃を支援したが、村からの火網により失敗に終わった。

18時、第37師団は「Monchy西の状況は明るくない」と報告している。残念なことに、高級指揮官にはこの認識が共有されていなかった。18時35分のアレンビーとキャヴァナの会議では、両者は「第37師団と協力して、今夜騎兵がMonchy占領を目指すべきこと」に同意した。おそろしく楽観的な状況認識である。これには騎兵軍団司令部への報告が遅れていることも災いしていた。18時ごろおこなわれた第8騎兵旅団の突撃の失敗は、20時45分にいたるまで軍団司令部に届いていなかったのである。

第37師団は砲撃と機関銃射撃に晒されつづけ、前進困難となっていた。そのうえ、同師団の大隊のなかには攻撃準備射撃の弾幕がシフトしてしまうまで攻撃命令を受け取っていない部隊もいた。このグダグダの当然の結果であろう、夜襲は実現しなかった。


第2騎兵師団について書くことは少ない。

同師団は12時半までにTilloyの準備陣地にいて、そこからWancourt-Feuchy線およびヒル90に向かって前進したが、ヒル90はドイツ軍が占領したままでほとんどそこから進めなかった。

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4月10日、Tilloy付近を前進中のイギリス騎兵。© IWM (Q 1989)

日が落ちると、第2および第3騎兵師団は前線より少しうしろの野営地で夜を過ごした。あたたかい飯はない。馬を杭につなぐには地面がぬめりすぎていたので砲弾で作られた漏斗口に馬を集めてシェルターとした。夜をとおして雪が降りつつづけ、寝つけないほど寒かった。

第3近衛竜騎兵連隊のある将校はこう記している。

「泥と砲弾穴のために馬を杭につなぐことは不可能だった。なので夜中鞍を置いたままだった。水がなく、馬たちは36時間以上なしで過ごさなければならなかった」。

エセックス義勇乗馬兵のある兵はこの夜のことをこう表現している。

「地面にそこらじゅう雪が積もり、空気は身を切るようだった。われらの馬は寒さと空腹で落ち着かない様子だった。というのも、いつ新鮮な補給が得られるかわからなくて、節約してえさを与えていたのだ」。6


作戦2日目もまた騎兵にとって、寒くてまったくひどいフラストレーションのたまるものでおわった。




●第3軍の作戦――4月11日――

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4月11日、アラスを通過するイギリス騎兵。© IWM (Q 2825)

11日、アレンビーはまだ決定的打撃を与えることができると信じていた。各軍団長に対し「第3軍は敗退する敵を追撃中なのでありリスクを進んで取らなければならないのだということを、軍司令官は全将兵に望む」と電報を打っている。

3コ軍団の11日の攻撃再開は5時からということになり、騎兵軍団に対する命令も10日23時45分に配布された。1コ軍団に対し1コ騎兵師団、すなわち第1師がスカルプ川北側の第17軍団、第3師が川からカンブレー道のあいだに展開する第6軍団、第2師がカンブレー道南側の第7軍団を支援するのである。騎兵の前進は6時からと決まり、先行する歩兵師団に対し、1コ騎兵旅団がついていくこととされた。Monchyの線だけでなくそこから東に10キロのDrocourt-Queant線まで前進するという野心的な目標が設定された。

11日の戦闘も、第1騎兵師団と第2騎兵師団について書くことは少ない。両師団はほとんど進めず、第1師は18時に攻撃中止となり、第2師は16時50分に撤退した。騎兵にとってこの日の焦点は、第3騎兵師団の参加したMonchyの戦闘である。


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Monchy付近の図。Anglesey, 82.

スカルプ川からカンブレー道のあいだに展開する英第6軍団は、5時より攻撃を再開した。第15師団がスカルプ川からMonchyのあいだを攻撃し、第37師団がMonchyに攻撃をかけた。これらを支援する第3騎兵師団の任務は、Monchy側面周辺に追撃をかけることである。目標は、左翼Pelves Mill、中央Bois Du Vertおよびヒル100。すなわちMonchy村を超えておよそ1キロの地点である。

7時10分、第8騎兵旅団は、第112旅団がMonchy西側に足場を固めているを知り、第3騎兵師団に報告している。ついで7時55分、南の第6騎兵旅団は「第112旅団はMonchyを落としたと報告している」という情報を上げている。さらに第6騎兵旅団の第3近衛竜騎兵連隊の偵察では、「村はかんぜんにイギリスの手に落ちたわけではないが、すくなくとも部分的に奪取されている」と報告された。

この錯綜する情報に対し、第8騎兵旅団長バルクリージョンソンBulkeley-Johnsonは旅団を前進させることに決めた。目標は村の北側およびその先であり、Pelves MillにいたるBois des Aubepines坂を確保するのである。旅団長はその旨を師団に報告し、隣接する第6騎兵旅団は南側の側面を固めることになった。

8時30分、第8騎兵旅団の3コ連隊に対し命令が伝えられ、第6騎兵旅団を先導する第3近衛竜騎兵連隊にもおなじぐらいの時間に命令が届いた。

エセックス義勇乗馬兵連隊と第10驃騎兵連隊を前列、予備として王立近衛乗馬兵連隊を後列にして、第8騎兵旅団は東進した。旅団が、Monchyから約1.5キロの地点であるオレンジの丘まで前進すると、Roeuxからはげしい機関銃射撃と砲撃に晒されはじめた。義勇乗馬兵連隊がオレンジの丘の頂上に着くや否や、砲弾が落ちはじめた。さいしょは一発二発、それから六発、それから絶え間のない流れとなった。かれらはゆるい散開隊形をとって速足で駆けはじめ、それからすぐに襲歩で駆けぬけた。

北からの敵火がはげしいので旅団長が取り決めていたとおり、旅団は右側へ方向転換し、Monchyへ直接乗り込んだ。

騎兵が突入したとき、第37師団の歩兵はひどく消耗していた。事実上、将校はみな戦死し、70名ほどの疲弊した兵のみが村の西側で発見された。多くの者は地下室に逃げ込み、積極的に防御戦闘をしている者はなきにひとしいというありさまだった。

騎兵たちは西口以外の入口にすばやく機関銃を設置し、また別の2か所に拠点を形成した――ただ前進中に荷物を載せた馬の多くをなくしてしまったために弾薬に不安があったが。このあいだに歩兵は散乱する装備を拾い集めたり、塹壕を掘ったり、負傷者が集められたりと戦場を整頓した。

9時ごろ、状況を確かめるため第8旅団長バルクリージョンソンは参謀とともに最前線へ歩を進めたが、その途中、頬骨のあたり銃弾で貫かれ戦死した。王立近衛騎馬兵のLord Tweedmouthが臨時で指揮を引き継いだ。

9時半までにMonchy村の防備はなんとか固められた。しかしこのときからドイツ軍の砲撃がはげしさを増し、村から一歩も前進できないほどであった。地面がぬかるんでいたために砲弾の威力は減衰していたが、建物は破壊され、行き場のない馬も砲弾の破片でつぎつぎにたおれた。通りは、死んだ馬と苦しそうにうめく馬で埋め尽くされた。

10時半ごろ、第37師団予備の第63旅団に対し村への増援の命令が出された。その第63旅団もドイツ軍陣地に攻撃をかけてもほとんど進めなかった。このあいだに、Monchyにいる騎兵は機関銃の増援を要請しているが、ドイツ軍に妨害されてかなりの困難をきたした。

Monchyの騎兵は悲痛な報告を上げている。

“2コ連隊の残余は村の北東、東、南の入口を確保している。機関銃と弾薬を要求する。死傷者が大量に出ていることが心配だ。逆襲が予期される……予備として増援部隊を要求する。馬のほとんどは負傷してしまった。”

昼の半ばも過ぎると「Monchy周辺の攻撃は停滞している」という認識が上級将校たちにも共有されるようになっていた。17時、キャヴァナは騎兵軍団の交戦していない部隊に後退命令を出し、Monchy周辺の騎兵部隊がまだ戦闘していたにもかかわらず、18時に軍団司令部はアラス西方へ撤退した。

夕方、Monchyの騎兵救援のため第12師団の歩兵が増援として送られ、さらに騎兵軍団に所属していた第17師団も投入された。このおかげで夜になると騎兵の大部分は撤退し、機関銃の不足から機関銃隊のみが翌日までMonchyにのこった。Monchyにいた騎兵の大部分は馬を失い、徒歩で去らなければならなかった。


Monchy救援部隊にいたある将校は、Monchyの惨状をつぎのように記している。かれが丘に登るため道の曲がり角を曲がると、歩みを止めた。すると、

「わたしを迎えた光景は、茫然自失するほどひどいものだった。互いに高く積み上げられ、見渡すかぎり道路をふさぎながら、バラバラになった兵と馬の死体が横たわっていた。引き裂かれぱっくりと口をあけたそれらの死体は、異様な姿勢で堅くなっていた。道路のくぼみはすべて血でいっぱいになっていた。これが騎兵だった」7

3日間の戦闘で、エセックス義勇乗馬兵連隊と第10驃騎兵連隊だけで、戦死および行方不明者61名を含む324名もの損害を出し、馬900頭ほどがうしなわれた。8


もはや戦機が去ったことはあきらかだった。11日夜、アレンビーは全騎兵に8日の野営地まで後退を命じる。そこで休息したあと、16日さらに後方へ下げられた。18日、ヘイグはキャヴァナに対し2コ騎兵旅団の36時間の前線待機を命じるもそこからお呼びがかかることはなく、アラス戦の騎兵の出番はおわった。


Monchy周辺の戦闘を境にしてイギリス軍の攻撃衝力は急激に低下する。4月12日に作戦を中止していればそこそこの成果で済んだかもしれない。だがヘイグはそうしなかった。アラス攻勢にまだ希望を持っていたからではない、フランス軍による主攻のためドイツ兵をできるだけ引きつけておこうとしたためである。イギリス軍はこのあとソンムとおなじような消耗戦を一ヶ月以上も演じた。




●エーヌ攻勢

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エーヌ会戦要図。参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察 (第三巻)』90頁。

フランス軍による主攻はイギリスのアラス攻勢よりすこしおくれてはじまった。予備軍集団の突撃に備えて、フランス砲兵は4月2日より試射と対砲兵戦をはじめ、9日より本格的な準備砲撃をおこなった。予備軍集団は5350門もの砲を集中し、4月1日から5月1日にかけてなんと1100万発以上の砲弾を叩きこんだ。

16日より予備軍集団はエーヌ地区のシュマンデダームへ突撃をかけたが、これまでにないはげしい抵抗に直面した。エーヌ地区のドイツ軍部隊は弾性防御を全面的に採用していただけでなく、いちじるしく増強されていたのである。攻勢の気配を感じたドイツ軍はひんぱんに塹壕襲撃をおこない、鹵獲した文書から攻勢計画の詳細を知っていた。一番大事な要素である“奇襲”効果はすでになくなっていたのである。

当時フランスへ従軍武官として赴いていた酒井鎬次はこのように書いている。

「4月16日まず予備軍集団の攻撃が、35師をもって40キロメートルの正面にわたり開始されたが、奇怪なことにはその前日、ドイツ塹壕から立札が出て『明16日攻撃の由御入来を待つ』と皮肉な文句が書かれてあったことを当時著者は実見した。」9

シュマンデダーム攻撃はつづけられたが、20日までに攻勢は失敗したとだれもが認識するようになっていた。ニヴェルはシュマンデダームののこりを確保すべく限定目標への攻撃に切りかえようとし、“決定的勝利”という約束を破るような方針転換によって、かれは軍の信頼を失った。フランスの政治家も攻勢を取りやめるべく策動しはじめた。

おもしろくないのがイギリス側である。せっかくお膳立てしたのに第一撃のあと腰が抜けたフランス側の行動に、このときばかりはロイド・ジョージとヘイグの両方とも怒った。イギリス側の猛抗議にもかかわらず、4月29日、ペタンが参謀総長に就任して攻勢は中止へと傾いてき、ニヴェルも解任に追い込まれていった。




●犠牲者

G.H. フォークFowke将軍の損害報告によれば、4月と5月におけるイギリス第1軍、第3軍、第5軍の損害合計は158,660名である。ただこれはアラス攻勢前の4月はじめの戦闘を含んでいるし、アラス攻勢の正面ではない前線の損害も含んでいる。それらを考慮すると、だいたい15万人より少ないぐらいであると推定できる。10

アラス攻勢におけるドイツ側の損害を確定するのはかんたんではない。ドイツの歴史機関は、4月と5月におけるドイツ第6軍の損害を79,418名としている。この数字は英第5軍正面の一部の戦闘を含んでいない。バイエルン王太子ルプレヒトは85,000名の損害を記すが、これも第6軍だけの数字である。11

うえにあげた英独の数字は単純に比べると公平を失する。このドイツ側の野戦中に部隊によりなされた報告は、傷を負ったが部隊を離れなかった者は除外されているし、軍団地域の病院で治療を受けた者も含まれていない。したがって、イギリス側の損害と比べるなら、ドイツ側の損害は三割増しにするのが適当である。12

ただ、イギリス側がこれだけこねくり回してもドイツ側のほうが損害が小さいという事実に変わりはない。




●アラスの騎兵

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砲撃によって死んだ馬たち。© IWM (Q 3955)

戦術レベルから見れば、機関銃は騎兵に活力を与えた。

のちにIvor Maxse将軍は「ルイス軽機関銃のない小隊など小隊とは呼べない!」と断言している13が、このことは騎兵部隊のホチキス機関銃についてもいえる。1コ連隊につき500名ほどしかいない騎兵は、単純な小銃火力で歩兵に劣っていた。それが騎兵連隊ごとに16挺、すくなくとも小隊に1挺のホチキス機関銃が1916年より配備された。馬に載せられて運ばれるこれらホチキスにくわえて、旅団機関銃中隊のヴィッカース機関銃12挺は、強固な機動火力を騎兵に提供した。

11日のMonchyの戦闘では、ごくごく少数の騎兵部隊が村に機関銃拠点を形成してふんばりつづけた。後方の司令部に機関銃と弾薬の増援を要求しつつ、村に置き捨てられていた歩兵のルイス軽機関銃2挺も拾って使い、しぶとく交戦しつづけた。対するドイツ軍の機関銃と火砲は、騎兵の使う機関銃を黙らせるためやっきになった。Monchyの騎兵は、第37師団にかわって防戦し、ドイツ軍の逆襲を未然に防ぐ一因となったともいえるかもしれない。

騎兵機関銃の奮闘を示すものとしてこの戦闘では、エセックス義勇乗馬兵のMugford伍長が、両足負傷にもかかわらず応急手当所への後送を拒否してヴィッカースを撃ちつづけ、ヴィクトリア十字章を授与されている。


もっと上のレベルでの評価はむずかしい。

イギリス軍は一つ目の作戦目的、すなわち“ドイツ兵を引きつけるべくアラス付近において牽制攻撃をおこなうこと”を完ぺきにこなした。とくにカナダ軍団のおこなったヴィミーリッジの戦いで、前年とは比べものにならないほど戦闘効率が増したことを証明した。イギリス軍はアラス攻勢が停滞したあとも攻撃をつづけ、敵を消耗させ引きつけつづけた。

しかし、二つ目の作戦目的、すなわち“カンブレーに向かい大突破をなすこと”は無残に失敗した。アレンビーの端的な誤りは4月9日の戦闘である。たしかに歩兵攻撃の進展にともなってうしろで待機する騎兵も前進させたことは、前年からの進歩である。しかし“すき間への突撃”のチャンスは歩兵の初撃中にあったのであって、歩兵攻撃のあとではなかった。

9日の戦闘のなかで、スカルプ川北側の第17軍団正面で追撃のチャンスが生まれていた。しかしこれに呼応すべき第1騎兵師団は戦場から遠くはなれていた。おまけに奇妙な指揮網のおかげで第1騎兵師団の出動は遅れたし、第2および第3騎兵師団の投入地点の変更もなかった。

アレンビーは10日深夜の電報で「第3軍は敗退する敵を追撃中なのでありリスクを進んで取らなければならないのだということを、軍司令官は全将兵に望む」と配下の軍団に送っている。楽観的なアレンビーは、初撃で敵の防御は崩壊したのだと思ったのだろうが、実際には反対である。1917年のドイツ軍は弾性防御を採用し、防御縦深を増していた。

つまるところ前年のソンム戦とおなじような大突破構想は、おなじような失敗におわった。アラス戦ののちアレンビーは軍司令官を解任され、エジプトに左遷された。


ではどうすればよかったのか。

そのカギは1916/17年冬季訓練プログラムとヒンデンブルク線への攻撃にある。比較的ちかい「限定された目標」をねらい、占領したら歩兵が来るのを待つ。すなわち“すき間への突撃”の距離を短くし、歩兵と密接に協力にするのである。

たしかにドイツ軍の防御は深さを増していたが、これは大突破対策である。深さを増したことで敵も味方もより分散するようになり、流動性を増した。そこにつけこむのである。戦略レベルや作戦レベルではない、戦術レベルの“すき間”へと突撃する。それも旅団ではない、連隊や中隊などの小部隊となって、つかの間の好機をとらえて浸透するのだ。そうすれば、アラス戦が典型的だったように歩兵の前進限界点を越えて戦果拡張できたかもしれないし、敵防御の全縦深へ進むことができたかもしれない。14

この点、4月9日のFampouxの戦闘はアラス戦における例外的な成功である。

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4月9-12日、英第6軍団の攻撃要図。OH, 1917, vol. 1, Sketch 9.

ノーサンプトンシア義勇乗馬兵連隊と第6軍団第6自転車大隊は「第15師団の攻撃に着いていき、それから歩兵を追いこしてスカルプ川をわたりFampouxを確保する」任務を有していた。17時ごろFeuchy村が第15師団によって占領されたとき、義勇乗馬兵と1コ自転車中隊は歩兵を追いこして前進した。かれらは川岸に沿ってさらに1キロ進み、Fampoux村の十字路南に達する。ここから義勇乗馬兵のB中隊が左に曲がって村に向かって突進し、川の北側からの狙撃下にもかかわらず、狙撃兵を一掃し、野砲2門を鹵獲し、橋を占領した。このあいだにC中隊は川を越えて鉄道橋を確保するためさらに東進し、野砲4門を鹵獲し多くの捕虜を得た。

この戦闘でかれらは単に橋を占領するという目標を達しただけでなく、その過程で多くの火砲を分捕っていた。そして11日朝Monchyの攻撃支援のための陣地を、36時間たったのちでも保持しつづけていた。このような軽快な作戦こそが本来騎兵のなすべきことだったのだ。

残念ながら、これを実行する重要な要素である“分権指揮”の面において、イギリス軍はドイツよりおくれていた。ドイツ軍の弾性防御は、大隊長が戦場の真の采配者であることを定め、かれらはその有効性を何度も何度も証明したが、アラス戦におけるイギリス軍がそれを示す例はほとんどない。4月9日のスカルプ川北側の状況がその好例である。最前線の指揮官は乗馬部隊による追撃の機会が来たと確信した。しかし局地指揮官の手元には騎兵がなく、騎兵を融通してもらう権限もなかった。

9日の“すき間への突撃”のチャンスが生まれたとき、スカルプ川北側の第9師団のある大隊長が旅団司令部との電話中にこう聞かれている。

「ドイツ兵どもは敗走中?」
「ええそうです」
「騎兵は投入すべきか?」
「ええ、ええそうですとも。でもいま投入しなければならないのです。明日ではおそすぎる」15


Monchyの戦闘でイギリス兵は騎兵という兵科の死を見たかもしれない。しかし騎兵自身がまだ自覚していない、Fampouxの戦闘こそが、あたらしい戦争に対応するあたらしい騎兵のすがたであった。

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4月13日、Monchy le Preux付近の塹壕をとおるイギリス騎兵。© IWM (Q 6412)



注1 参謀本部編『大戦間に於ける英仏露連合作戦』175-176頁;Doughty, 313-314.
注2 同時代というよりはのちの歴史から見た感想にも感じるが、酒井鎬次はニヴェルについてこのように書いている。「十二月中旬著者は外国武官として総司令部で、はじめてニヴェル将軍をむかえた。その第一印象はいかにも貫禄の足らぬ将軍であるという一言に尽きた。なるほどわれわれにまでお世辞はよいし、社交界向きな感じを与えるが、マンジャン将軍とは異なり、挙止軽率にして、深みがない。どうも信頼がおけないという感じがした。」 酒井鎬次『戦争指導の実際』380頁。
注3 Sheffield, 213.
注4 適訳思いつかないので仮に「全力攻撃」としておく。私見では「周密攻撃」とおなじような印象を受けるが、英語圏の著述家がこだわるのでこれを尊重する。
注5 Kenyon, 111.
注6 Anglesey, 79.
注7 Anglesey, 91.
注8 Anglesey, 94.
注9 酒井鎬次『戦争指導の実際』398頁。
注10 OH, 1917, vol. 1, 556.
注11 OH, 1917, vol. 1, 556.
注12 OH, 1916, vol. 1, 496-497; OH, 1917, vol. 1, 557. Wynneは、ドイツの損害を約85,000名、イギリスの損害を約142,000名とする。曰く、軽傷者のあつかいのちがいを考慮しても、どちらの損害が多いかはあきらかであると。Wynne, 180.
注13 Griffith, 79.
注14 Kenyon, 131.
注15 OH, 1917, vol. 1, 237.




酒井鎬次『戦争指導の実際』改造社、1941年。
参謀本部編『大戦間に於ける英仏露連合作戦』偕行社、1924年。
参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第三巻)』偕行社、1924年。
諸岡幸麿『アラス戦線へ』軍人会館事業部、1935年。
G.C. Wynne. If Germay Attacks: The Battle in Depth in the West. Brighton: Tom Donovan Editions, 2008.
1940年にIf Germay Attacksが出版されたとき、戦時下を反映してイギリス軍の作戦指導をきびしく批判した部分が削除された。ウエストポイントの復刻版もこの1940年版といっしょである。対してTom Donovan Editionsによる復刻版は、批判した部分も復活させた完全版だ。Amazonで取り扱っていないため、ウエストポイントの復刻版を買ってから知って愕然とさせられたうえ、出版社から直接買わなければならなかった。出版社……許さねぇ!!




勝利をもたらした兵器?

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撃破されたマークⅣ戦車。 © IWM (Q 14571)

第一次大戦での戦車誕生の物語は有名である。イギリス軍に勝利をもたらした兵器であるとさえ言われている。しかしWW1の戦車をWW2の戦車のように見てはならない。第一次大戦時代の戦車は装甲がうすく、速度もおそく、機械的信頼性が致命的に欠けていた。

今日から見れば、第二次大戦の機甲部隊は、第一次大戦の陣地戦が再現されることを防ぐ一役を担っていた。となれば第一次大戦の戦車も陣地戦を打破したものと考えてしまいがちである。しかしこれは単なる後知恵にすぎない。

第一次大戦に誕生した戦車は、将来の革新を予感させるものだった。が、のちの歴史から見てしまうのはよくない。1918年イギリス大陸派遣軍の使っていたさまざまな戦車は役に立った。しかし絶対必要なものではなかった。戦争に衝撃を与えたような革命的なものでは、決してない。


1916年9月15日

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ソンム戦に参加したマークⅠ戦車。 © IWM (Q 5572)

戦車のデビュー戦、1916年9月15日の戦闘について、戦車の生みの親スウィントンは回想録で「大量の戦車が一度に投入されなかったこと」を嘆いており、のちの歴史家もそれに追随する。しかし、スウィントンは「大量の戦車が一度に投入する」という戦術的アイディアは持っていたが、それをどう用いれば決定的勝利につながるものになっていたか明らかにしていない。おまけに、少なくとも6月26日あたりまで、ヘイグの総司令部もスウィントンのアイディアに沿って計画を進めていた。

ヘイグの要求に対し、スウィントンは8月中旬までに75台の戦車とクルーを用意することに同意していた。しかし戦車はなかなか送られてこない。ヘイグと総司令部は失望し、計画は戦車小部隊の投入に変更された。

9月中旬までに3コ戦車中隊がフランスに送られたが、戦車兵は一般に訓練未熟で、1コ中隊は深刻なほどに訓練がなされていなかった。そして、9月15日に戦闘可能状態にあったのは、49台のみ。攻撃開始線にたどり着くまでに13台が落伍した。戦車の致命的な信頼性のなさが現れている。

いわれのない中傷を受けているが、ヘイグは戦車の可能性を信じていた。しかし数ある兵器のなかの一つでしかない、とも考えていた。試行錯誤により、運用法を探し出していけばいいと思っていたのである。実際、先例がなく、歩兵との協同も不十分で、その方が現実的であった。




カンブレーとアミアン
カンブレーとアミアンの戦いは、第一次大戦の戦車運用の好例である。それは戦車軍団のイニシアチブではなく高級司令部のイニシアチブであり、決定的兵器ではなく歩兵の支援兵器であり、戦車戦ではなく諸兵科連合戦であるということである。


高級司令部のイニシアチブ

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サー・ジュリアン・ビング将軍とフランス将校。 © IWM (CO 1382)

戦車信奉者が書いたものによると、カンブレー作戦の発案はフラーということになっているが、それを裏付ける同時代史料はない。反対に、戦車軍団長エリスの戦後間もない回想によれば「計画は(第3軍司令官)ビング」によるものであり、かれは「準備砲撃なしの攻撃」を考えていた。戦車軍団に作戦計画を策定する権限はなく、エリスはカンブレー作戦のことを秘匿していた。フラーら参謀が作戦を知ったのは、計画が進んだあとだった。

カンブレーを戦車戦と呼ぶことにも語弊がある。カンブレーを可能にした革新は砲兵の試射なしの射撃法だった。これにより敵に予期されることなく、作戦開始するやすぐに効果的な火力支援を行うことができるようになった。ただ、準備砲撃を行わないとすれば鉄条網が障害となる。それを解決するための戦車だった。戦車を使い、鉄条網を踏みつぶせばいいのだ。カンブレー作戦を支えたのは戦車のみではなく、芸術的なまでに発達した砲兵戦術、現代と変わらないまでに進化した歩兵戦術あってのものである。

フラーやリデルハートらは高級司令部が戦車の投入を妨げたと批判する。が、ビングやローリンソンといった軍司令官は戦車を活用しているし、ヘイグは戦車の増産を要求し、総司令部は戦車運用に関する訓令を出している。


歩兵の支援兵器

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アミアンの戦いでのマークⅤ戦車。 © IWM (Q 7302)

実際に戦闘に投入された戦車は驚くべき速さで消耗した。カンブレー戦では、378台の戦闘車両が投入されたが、一日で179台が失われた(消耗率47%)。アミアン戦では、マークⅤ342台、ホイペット72台、支援戦車120台が投入されたが、二日目には戦闘可能車155台にまで激減した。戦車は装甲に守られているはずだったが、ドイツ軍の特殊な小銃弾(装甲貫通弾)に弱く、動きの遅さが相まって砲兵の直接射撃にも弱かった。戦車内部は風通しがわるくガソリンのにおいが充満し、振動と騒音は耐えがたかった。そして、すぐに故障した。

装甲が不十分で、動きが遅く、居住性が最悪で、機械的信頼性に欠ける――決定的兵器になるわけがない。戦車は、歩兵の一支援兵器にとどまらざるを得なかった。


1918年の諸兵科連合戦

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ドイツの対戦車ライフルを鹵獲したニュージーランド兵。 © IWM (Q 11264)

後世の人はしばしば「アミアン規模の戦車の大量投入が1918年後半戦でなかったこと」を嘆く。しかし、一つの作戦がもはや偉大なる効果をもたらさないことを経験していた連合軍は、異なる軸からの攻勢を次々と繰り出していた。アミアンのように一つの軸で、準備に時間をかけてというわけではない。

カンブレー作戦が決まったのが8月、戦車軍団の将校が説明を受けたのが10月25, 26日、作戦が開始されたのが11月20日。アミアンの準備には3週間かかった。これほどの時間を費やしてまで戦車を待つ必要はあったか。いまや戦場は陣地戦から運動戦に回帰していた。

1918年のアミアン戦が始まったとき、イギリス軍は1914年とはまったくの別物となっていた。イギリス歩兵はかれらなりの“浸透戦術”を行うようになっていたし、砲兵は間接照準射撃が全盛となり芸術的な砲術を行うようになっていた。航空部隊は近接航空支援を行うようになっていた。そして、1918年のイギリス軍はこれらすべてを“調和”させ、効果的に扱う術を身に着けていた。

戦車だけが活躍したのではない。歩兵が、砲兵が、騎兵が、航空兵が、すべての兵科All Armsがそれぞれの役割を演じていた。この第二次大戦さながらの諸兵科連合戦こそが、ドイツ軍を押し潰す原動力となったのである。




デイヴィッド・スティーヴンソン「西部戦線での統合・諸兵科協同作戦(1918年)」『平成26年度戦争史研究国際フォーラム報告書』47-56頁。
J.P. Harris. "The Rise of Armour." in British Fighting Methods in the Great War, 113-137.




●線的防御の思想

1914年世界大戦が勃発したとき、各国の軍隊は“散兵線による戦い”を主としていた。ズラリと横に並んだ小銃兵(かれらは戦列を組まない散兵である)がたがいに数百メートルはなれて撃ち合うのである。1

防御に際し、散兵線が崩れそうになったならすみやかに援隊(予備隊)を送って補強し、陣地を固守する。西部戦線での戦いが膠着に陥るにつれ防御陣地は拡大されていったが、この“線的防御の思想”の基本的な部分は、戦争が一年二年経っても守られていた。

1916年ソンム戦が始まったとき、ドイツ参謀総長ファルケンハインは「いったん陣地を奪われたならばいかなる犠牲を払ってでも奪い返すべし」と指導し、重要な戦力をなるべく前方に配置させた。結果は50万人以上とも言われる膨大な人的消耗である。これと合わせて、ヴェルダン攻勢の失敗とそれに付随する損害により、ファルケンハインは辞任を余儀なくされた。




●転換点

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参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第三巻)』6頁より。

あとを継いだヒンデンブルクとルーデンドルフは、ファルケンハインがモルトケから参謀総長を継いだときと同じような状況に置かれた。ロシアはいまだ打ち倒されておらず、しかもあらたにルーマニアが連合国側について参戦してきていた。このため、ドイツは陸軍を二分せざるを得なかった(1917年1月時点で、東部戦線に122コ師団、西部戦線に133コ師団)。

参謀次長ルーデンドルフによるドイツ軍の方針は「西で守り東で攻める」である。すなわち東部戦線においてルーマニアを打倒しロシアを屈服させるまでは、西部戦線では守勢をとるのである。

1917年初頭、西部戦線のドイツ軍は戦線の背後に強力な防御陣地を構築しており、さらにアラス・ソアッソン間において有利な地形へと局地的な撤退を計画していた。強力な防御陣地――連合軍はヒンデンブルク線と呼んだ――は、ドイツが有利になるまでの時間稼ぎとなるはずのものであった。

ヒンデンブルク線とあわせて、ドイツ軍は防御思想の一大転換をおこなっていた。




●線的防御の放擲

ドイツ軍は1916年12月「陣地戦における防勢会戦統帥要領」を出す。「防勢会戦の目的は敵の戦力を消耗困憊せしめ、われ固有の戦力を節約せんとするにあり」と述べ、このため

1.大勢の人力にたよるのではなく、これに代わる機械力(野戦砲、機関銃など)を積極的に活用すること
2.陣地の保持のみに熱中してはならない。防御戦闘に有利な地形は自軍の手にのこし、不利な地形は敵にゆずるよう指導すること

を提唱している。逆襲に関しても「うしなった陣地の回復は必ずしも必要ではない」と、従来とはまったく異なる方針を打ち出した。2

ルーデンドルフは新教令の前文でこう述べている、「『ここで戦い、ここで死ぬのだ』――歩兵はもはや自分にこう言い聞かせる必要はない」。新教令は、“防御=土地の維持”の思想をすて、不利な土地は放棄してそれよりも“強力な反撃によって陣地を回復すべき”との考えを打ち出している。

この背景には、ただ単に危急の戦場に増援を送ってもたいして活躍できず多大なる損害をこうむってすぐに士気喪失してしまうこと、せまい土地に兵を集中させても飽和点をむかえて有機的に活動できなくなること、つまり“兵数の増加に比例して威力が増大するという考えは誤りである”という過去の戦闘での教訓があった。3

であるからして新教令の方針は、兵数ではなく機関銃や野戦砲といった火力を戦力指数とし、第一線陣地を固守するのではなく第一陣地“帯”に縦深にわたって防御火力を置いて敵の突撃部隊を消耗させることに変わったのである。




●陣地の構成

防御陣地は、前哨地域、戦闘地域、後方地域と分かれる。

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Lupfer, 14より。

陣地の縦深については、土地の環境と防御部隊の戦力に応じて異なる。ひらけた見通しの良い地形では、前哨地域だけで3キロの縦深をとり、そのうしろにある主抵抗線と戦闘地域が敵の野戦砲の有効射程外になるように配慮された。反対に、森林多く起伏のはげしい土地では、前哨地域と戦闘地域はほとんど同一となり、主抵抗線の前方には数百メートルの前哨のみがあった。

前哨地域のうしろ、戦闘地域前縁には、第一塹壕線すなわち主抵抗線が設けられる。この主抵抗線は可能なかぎり反斜面に設置された。反斜面にすれば敵に観測されにくくなり、また砲撃から防護されるという利点があった。ここに置かれた機関銃は、長距離射撃というよりも突発的で奇襲的な射撃をおこなうよう設定された。

主たる防御戦闘は、戦闘地域にて行われる。戦闘地域は、地形にもよるが、1.5キロから2キロほどの縦深があり、後方に第二塹壕線すなわち砲兵防護線が置かれた。新教令は、敵の大規模な攻撃により主抵抗線が取られてしまうことがあり得るのを想定しており、もし取られてしまっても逆襲により回復すればよいと明言している。

後方地域は――のちに戦闘地域の縦深がもっと深くなることになるが――戦闘地域のうしろに置かれた。

このほか前哨地域と戦闘地域(主に戦闘地域)には、小拠点が随所に散らばって置かれた。小拠点とは、塹壕・森林・小屋などを利用した小さな要塞である。数コ歩兵分隊からなる部隊が担当し、敵の観測をさけるよう巧妙に設置されていた。小拠点は全周防御を基本とし、もし敵の前進により孤立してしまっても固守するものとされた。


逆襲は新教令の重要な要素である。全地域をとおして逆襲が設定されていた。前哨地域では突撃分隊が局地逆襲をおこない、戦闘地域では突撃中隊が局地逆襲をおこなう。これでも敵を止められなければ師団予備の数コ大隊が戦闘地域の後方から進出して主逆襲をおこなう。さらにそのうしろには軍予備の反撃師団が控えており、これによる応急攻撃で敵を撃破できなければ最高統帥部がさらなる反撃師団を召致して周密攻撃を用意した。

防御はただ単に待ちかまえて守るだけではない。“きらめく報復の刃”、つまり攻撃によって防御の目的は達成されるのである。


前哨地域と戦闘地域にいる歩兵は、ある程度進退の自由が許されていた。敵の砲撃を避けるために、前方、側面、そして“後方”に一時的に退避してもよいことになっていた。4さらに、もし敵の圧倒的な攻撃に押し潰されそうになったら後退もやむを得ないものと認められていた。 5ただこれは消極退嬰の精神からではない、“自由主義的な”必勝の信念からである。一時的に陣地をあけわたしてしまっても逆襲部隊に協力し好機をとらえて陣地を回復すればよい(最終的に敵の攻撃を破砕すればよい)と新教令では考えられていたからである。

この新教令の方針に対し、批判は少なからずあった。ドイツ軍きっての防御戦の専門家であったフォン・ロスベルクは、最前線の兵に後退の権限をゆだねるなど自由主義が過ぎると批判している。さらに、独自判断で動く多数の小部隊により、収拾がつかなくなるほど戦場のカオスが増すのではないかと危惧した。

新教令とときをおなじくしてロスベルクが出した「ソンム戦における第1軍の経験」は、“敵が陣地を通過するのは守備兵のしかばねを踏み越えるときである”として文字通り死守を要求している。

ルーデンドルフはロスベルクら将校の批判に対し、柔軟に対応した。「ソンム戦における第1軍の経験」は印刷配布されたうえ、新教令とおなじく1916年12月に発布されたあたらしい歩兵教範「戦時徒歩部隊訓練教令」は死守主義を掲げている。これは新教令と矛盾する記述である。

「ルーデンドルフは新教令に自信を持っていたが、かれはまた効果的なドクトリンはドグマとなってはならないことを自覚していた。戦いが再開するとき改善が必要となる。ゆえにかれは自主的な思考を邪魔しようとはしなかった」。6

これはドイツ軍の戦術的優位を主張する者たち――ここではドイツ派とする――が重視している点である。新教令を主に執筆したのはルーデンドルフではなく、バウアー大佐やガイヤー“大尉”といった最高統帥部の若手参謀将校であったし、新世代戦術のモデルとなった突撃大隊を育てていったのは、ローワ大尉やReddemannといった下級指揮官であった。

ドイツ派は、ドイツ軍の将校たちがそれぞれ自主的な発想で戦術の改善をしていったことで結果的に戦術的優勢を獲得していったこと、さらにその前提としてマニュアルにしばられることなく自由に試行錯誤できる環境が軍内にあったことを高く評価している。7


人力から機械力へ、死守主義から自由主義へ、そして線的防御から弾性防御へとドイツ軍の防御思想は一大変化を遂げた。この変化は「絶大の尊敬を払いて考一考するを必要と信ず」8と同時代より注目されている。




さてさて、大戦4年目にしてついに戦力充実したるイギリス軍、これに対するは難攻不落の要塞を築きしドイツ軍。四つに組んだ両軍がくり広げる大いくさはいかなるものになるか。それはまた次回!

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サンシャモン戦車(IWM Q 69623




注1 わかりやすく描かれた図として、渡辺シンゴ「日露戦争に於ける日本陸軍歩兵の戦闘配置」。
注2 参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第三巻)』14-16頁。
注3 参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第三巻)』19-20頁。
注4 Lupfer, The Dynamics of Doctrine: The Changes in German Tactical Doctrine During the First World War, 15.
注5 Lupfer, 22.
注6 Wynne, 153.
注7 片岡徹也「陣地戦から電撃戦へ――新しい創造とは――」『陸戦研究』第584号(2000年9月):20-23頁;Lupfer, 55-58; Gudmundsson,174-176.
注8 参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第三巻)』16頁。日本陸軍参謀本部の編纂した『世界大戦ノ戦術的観察』は、第一次大戦時代の戦術の変遷について書かれたものとして日本語では最高峰である。ただ、たいへん読みづらいうえ、時代的な制約を抱えているように見える。ドイツに関する情報源は敵国であったためか、連合国(主にフランスか)や、戦後間もない回想録に限定されていたものと思われる(『観察』にはロスベルクの名が出てこない!)。弾性防御に関する英語圏の研究では、イギリス公刊戦史の編纂に関わったこともあるWynneの If Germany Attacks が必ずと言っていいほど挙げられる。ほかにアメリカ軍人Lupferの冷戦期の研究 The Dynamics of Doctrine 、Martin SamuelsのCommand or Control。







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