スポンサー広告 --.--.-- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
「Battle of Beersheba」を今読みなおしてますが…なんだこれは…

細かすぎる…人名が多くなると把握に困るし…



よし!諦めた!w


前書いたやつと混ぜることにする。

気が向いたら加筆で。



記事『ショーヴェルは本当に“Put Grant straight at it”と言ったのか?』のショーヴェルの手紙で出てくるビーン氏って誰だよって思ってたら、WikiP英語版を見る限りどうやら第1次大戦のオーストラリア公刊戦史の責任者?らしい。
パレスチナでの戦いを描いたThe Australian Imperial Force in Sinai and Palestine:1914-1918は初版が1923年のようだ。この本なんか知らんが軍記物の雰囲気(あるいは旧陸軍的な感じ)がするんだよなあ。公刊戦史って言ったらもっとストイックな感じを想像してしまうんだけど。著者のギュレット氏は後に政治家を志し、1940年飛行機事故で死亡。ふむふむ。


light horseを軽騎兵を訳してきたけど、Australian light horseはcavalryじゃないって説明にたびたび遭遇するので、全部乗馬歩兵に変えようかと。ライトホースじゃあんまりなので…適訳がないな。パレスチナのAustralian light horseはメギッド戦のときにsword装備になったよう。サーベルsabreじゃないの?とか思うが、資料がないので分からない。オスプレイのBritish cavalry equipmentでも買うかな。

イギリス公刊戦史買います。カードの料金がやばくなるので来月になるけど。




11月1日、英エジプト遠征軍は3個歩兵師団をもってガザに攻撃をかけた。だが、オスマン軍の防御は強固であり、反撃によって追い返された。11月6日、アレンビーは乗馬隊にガザを包囲するよう命じた。ここにおいて電撃軍集団司令官ファルケンハインは背後に危険を感じ、第7軍、第8軍に退却を命じた。新しい防御線は約10キロも後ろである。結局のところ9日までに第8軍は約20キロ後退し、第7軍は手痛い被害を被った。

アレンビーに攻撃の手を緩める気はない。イギリス軍は追撃を続行、エルサレム近郊までに迫った。11月25日、ここでフォン・クレスの第8軍が2個師団で反撃し、多少戦線を押し戻した。だがイギリス軍の猛攻はとどまることを知らず、12月8日ついにエルサレムは陥落した。遠い昔、中世の十字軍以来イスラームに奪われて久しい聖都が再びキリスト教徒の手に落ちたのである。

その後もイギリス軍の攻勢は続いたが、1917年の終わり頃になって打ち切られた。兵站支援が限界に来ていたからである。1917年10月31日から12月31日の間、電撃軍集団は戦死、負傷、捕虜、行方不明合わせて25337名を失った。英エジプト遠征軍の損害は約1万8千名である。

2倍の歩兵、8倍の騎兵戦力差、優勢な砲兵とイギリス海軍艦船の容赦のない猛砲撃、そしてイギリス軍の主攻を読み誤るという致命的な失敗にもかかわらず、オスマン軍は善戦した。ガザ正面においては側背に脅威を感じるまでイギリス軍を寄せ付けず、後退戦においてもあるいは防御、あるいは反撃し、機動的な防御を完遂した。結果的にガザ、エルサレムと重要な都市を失ったにもかかわらず、電撃軍集団自体は生き残ることができた。これは偉業とも言えるかもしれない。
(order to die,pp172-175)



やはり研究すべきはメギッド戦か…
Secret

TrackBackURL
→http://hikasuke333.blog113.fc2.com/tb.php/65-0cd1f608

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。