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感想 2009.12.09 (水)
下位春吉訳述『魚雷の背に跨りて』信義堂書店、1926年

1918年11月1日、イタリア海軍の人間魚雷による墺戦艦フィリブス・ウニティス(本ではビリブス・ウニチス)号撃沈を実行した二人の手記の翻訳から描いた本。ラファエレ・パオルッチ軍医(中尉)が『海軍及び植民衛星年報』第24年第2巻第5号第6号に載せた記事と、ラファエレ・ロッセッチ海軍造船少佐の記事が主。

なんか日本の偉い人が題字やら序文やら書いてる。この理由は『大戦中のイタリヤ』にある。
「内容がほとんど伊国軍人が官庁に提出した公文書であるがゆえに、これに対する日本当路者の見解評価を得たい希望から、東郷元帥を始め陸海相、海軍軍令部長の序文題字を入れた。」
このオジサン半端ねえ。

戦前というのは今より軍隊が近い存在であったためか、軍事に対して“分かっている訳”をしてくれるのがうれしい。兵隊にとられた人なんかもそう。現代の日本の翻訳者さんは、“分かっていない訳”をよくする。



カポレットの敗北というのは、イタリア人の心に深く刻まれたらしい。この会戦で惨敗を喫したイタリア軍に世界は厳しい目を向けた。日本陸軍もその中の一人で、会戦後間もない時期に書かれたものではこの時期のイタリア軍を弱小軍隊としている。

「カポレットの汚辱はまだ私らの頭上に残酷な悪夢のように重しかかっていた。この汚点を洗い去らんがためには、伊国民の真価はその不可解な悲劇とは何らゆかりなきことを世界に示す必要がある。(中略)我ら伊国民は犠牲の精神をもって、諸外国人の前に、我らの名誉を回復せねばならない。」
パオルッチ軍医手記 『魚雷の背に跨りて』p.28


カポレット後のイタリア軍は本気を出している。遅まきながら。当時の流行であった突撃隊は逐次拡充され、突撃軍集団が編成されるようになるまでになる。他にもあるのだが、この一軍医の心中にもあるアイディアが浮かんだ。

パオルッチ軍医

「私はフィリベルト艦の士官から、魚雷及び敷設または浮遊機雷に関する諸種の図書を耽読し、研究する便宜を与えられた。その時私の胸中に、泳いでポーラ港に侵入しよう…という考えが浮かんだのである」
パオルッチ軍医手記 『魚雷の背に跨りて』p.29


驚嘆すべきは、軍医はこれに真面目に取り組もうとしたことだ。機雷と魚雷に関する本を読み漁り、海図で距離を図り、実際に泳いでみる…。実行可能と考えた軍医は艦長ドンデロ大佐にこの構想を願書として差し出した。

「それから数日たって、海軍中将マルツォロ閣下からお呼び出しがあった。閣下はいたって慇懃なお言葉をもって私をお迎えくださって、そのうえで私に、チャーノ海軍大佐のところに行くように、そして同氏と必要な打ち合わせをするように……とのことであった。」
パオルッチ軍医手記 『魚雷の背に跨りて』p.32


チャーノ大佐と打ち合わせをした軍医は大佐の言葉に打ちひしがれる。大佐の説明によると、現実的な観点から言えばコンバーレ岬から1マイルの地点で軍医を下さねばならぬ。この距離からポーラ港を往復するとなれば約12kmも泳がねばならない。

「私はこれを聞いて、決まりの悪いほど当惑したが、しかしそれに打ち負けて、私の当初の企図を放棄することは、男子の面目として忍びえなかった。」
パオルッチ軍医手記 『魚雷の背に跨りて』p.33



「苦心惨々たる私の本当の必死の努力はこれから始まるのである。
それから一カ月の間、雨が降っても風が荒れても、毎晩欠かさず、3時間も4時間も、時としては5時間もぶっ通しに、ラグーナの海で、私は必死となって猛練習をやった。」
パオルッチ軍医手記 『魚雷の背に跨りて』p.34



「一か月の猛練習ののち、5月の終わりには8kmに達した。私にとってはこれは最大限度だ。そこで私はチャーノ大佐のところに行った。そして次の通りに行った。

『ポーラ軍港襲撃の目的のために遊泳すべき、その往復に必要な12kmまでには、私の遊泳力は到底達しえられそうにもありません。しかしいま私は確実に8kmは泳げます。それは往きだけの片道に必要な6kmは十分に通過していますから、どうぞ決行させてください。私は復(かえ)りは断念します。ことをなせば私の望みは遂げます。生還は期しません。』

これを聞いてチャーノ大佐はホロホロと涙をこぼされた。

『さすがはイタリアの軍人だ。えらい。僕らの決心次第では、君の8kmで往き帰りともに充分だ。なお熱心に練習を続けたまえ。僕らは機雷を制作させようから。』」
パオルッチ軍医手記 『魚雷の背に跨りて』p.36


だが一カ月たってもチャーノ大佐から音沙汰がない。軍医は焦燥に駆られた。やっと連絡がきたと思ったら、今の計画を放棄してある士官が策案中の別の計画に参加してくれとのことだった。軍医は頷いた。


1918年夏、ドイツ軍の大攻勢に呼応したオーストリア軍の総攻撃が始まった。イタリア軍は奮戦してオーストリア軍を追い返した。また、ルイジ・リッツォとジョゼッペ・アオンツォが2隻のマス型自動艇をもって、墺艦隊に肉薄して襲撃。墺戦艦サント・ステファノ号を撃沈して凱歌を挙げている。これについては、『大戦中のイタリヤ』に詳しい。


ロッセッチ


パオルッチ軍医が紹介されたのはロッセッチ海軍造船少佐である。ロッセッチ少佐は大戦当初から、ポーラ港内に持って忍びこめるような新しい破壊兵器を考案していた。ただ、その道は困難で、周囲の冷笑と無理解があった。やっとのことで新機械が完成して、彼はポーラ港襲撃案を海軍参謀本部に提出した。同時にこの計画は、考案者たるロッセッチ少佐自らに任命するよう願い出た。

人間魚雷


パオルッチ軍医とロッセッチ少佐は一緒になって、夜間機体を用いて試験を行った。これは実に4カ月にも及んだ。


1918年10月31日夜、ついにポーラ襲撃は決行された。2人と機体はマス自動艇に某地点まで運んでもらい、そこからポーラ港に侵入し、機雷を仕掛ける。そしてまたこの場所まで戻って自動艇に拾い上げてもらうのである。

地図


「チャーノ大佐が荒々しく私たちに、

『さあ、もう水に入る時刻だ』

と言い放つ。この厳粛な声には、包もうとしても包みきれぬ衷心の強い感激が明らかに聞こえる。時まさに10時。

短き強き抱擁。握手。 舷側を下りて暗黒の海に入る。

スカピン中佐(艇長か?)の声が私らの頭上に聞こえる。
『イタリアは祖国のために成そうとする事業を多として、君らを祝福する。生死は天の運。自重してくれたまえ。イタリアは永久に君らの名を忘れることはなかろう。』

ロッセッチ氏と私とは水中から、
『国王万歳! Viva il Ra!』
と答えて、今までつかまっていた舷側から手を離した。」
パオルッチ軍医手記 『魚雷の背に跨りて』pp.56-57



「気圧タンク内における空気の圧力は205気圧で、従来の準備試験に達し得たあらゆる圧力にも勝っている。二人の精神状態及び身体の事情は極めて良好である。マス第96号を左手に見て艇を離れる。声をひそめながら、私らは『国王万歳!』の礼を交わした。」
ロッセッチ少佐手記 『魚雷の背に跨りて』p.104



暗闇に潜み進む二人と機体。

目指すはポーラ軍港、狙うは墺戦艦フィリブス・ウニティス!






二人の手記は多少食い違いがある。下位氏が物語風にせずに、別々の翻訳にした原因か?

マス型自動艇というのは、イタリア海軍が大戦中に使用した特殊な形をした軽快な自動艇のこと。ピージョ Arturo Pigio 技師の草案。憂国的詩人ダンヌンツィオが選んだ、『常に敢行することを忘れるな! Memento Audere Semper! 』の頭文字からマス MAS と称している。手元にないが多分『イタリア軍入門』に載ってると思う。

血沸き肉躍る戦記(プロジェクトXみたいな感じ?)なので、戦史好きの人は面白いと思うかも。



風邪をひいているのにこんな物書いてる自分って…もっと書き足したいが、頭が…

12/12書き足しました
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