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この文章は『新月旗はためく下で 第一次世界大戦における中東戦線史』の付録として収録されていたものです。誤解・誤読に基づいていると思われる部分があったり、いまとは意見が異なる部分があったりするので多少手を加えて注を付けようかと思いましたが、予想以上に時間がかかるので文章はそのまま体裁だけ整えました。



散兵線の戦い
19世紀初頭のナポレオン戦争で時代を華やかに飾った戦列歩兵はそれ以降ゆるやかに姿を消していった。

ライフリングされた後装銃が新たに開発される。この小銃は高い命中精度を誇り、その射撃を避けるために歩兵は戦列を組まなくなっていった。その代わりに、彼我500メートル内外を隔てて、1-2歩間隔(約0.7-1.4メートル)の散兵による線が展開され、中隊長の統制下で互いに小銃を撃ち合うようになった。また、普仏戦争までに多くの軍隊で後装式の大砲も採用されていった。

1899-1901年ボーア戦争では、イギリス軍の予想外の苦戦に各国は注目した。散兵線を展開し陣地にこもるボーア兵の小銃射撃により、イギリス軍の正面攻撃が何度も挫折したのである。マゲルスフォンテーン、ストームベルグ、コレンゾの1週間で行われた三つの戦いで、イギリス軍の攻撃が失敗してボーア軍に撃退された。最終的にイギリス軍が戦争に勝ったものの、防御優勢が兵学界でささやかれた。

ドイツでは、ボーア戦争の戦訓により敵の射撃を避けられるよう“より広い散兵線”が採用された。ただ、この“より広い散兵線”を展開することで効果的な指揮を維持し続けることができるのか疑問視された。小部隊戦闘は依然中隊長の指揮下にあり、小隊長や分隊長、つまり少尉や下士官に戦闘指揮を委任することには躊躇があった。これはドイツにかぎらず列強各国の認識である。戦闘空間の拡大は認識しているものの、少尉や下士官が本当に自主的に行動できるのか疑われていた。

1904-5年の日露戦争は、これより前の雰囲気を一掃した。少数のみ配備された機関銃が偉大なる効果をもたらしたが、同時に日本軍による“果敢な攻撃精神”によって最終的にロシア軍が撃退されたとみなされた。この影響で「不撓不屈の攻撃精神が頑強なる防御をよく制す」との考えがヨーロッパ軍事界に蔓延した。

この他、日露戦争の戦訓により、機関銃の増大、重砲兵の野戦運用などが各国で行われた。

第1次大戦直前の各国歩兵師団は、12コ歩兵大隊を基本としていた。独仏露は2コ旅団4コ連隊(1コ連隊は3大隊を有する)、英は3コ旅団12コ大隊である(イギリスの連隊は管理単位なので、戦時には旅団の下に大隊が来る)。砲兵は70ミリクラスの中砲を持ち、ドイツやイギリスは100ミリ以上の重砲も師団編制に組み込んでいた。日露戦争期の日本軍師団編制に機関銃はなかったが、大戦直前の各国歩兵師団には24-32挺が配備されていた。


火力に逆らう男たち
1914年8月、いざ大戦が始まると“不撓不屈の攻撃精神”は破滅的結果をもたらした。増大する火力は密集する歩兵たちを次々と吹き飛ばし、機関銃が一挺でも生き残っていれば1コ大隊が阻止されるとまで言われた。

とくに強くイメージされるのがフランス軍である。大戦直前の教令には「フランス陸軍は、その伝統に復帰し、攻勢以外の原則を認めない」とまで書かれ、実際に“軍旗を翻し太鼓を打つ”ような調子で突撃を敢行した。結果は、血塗れの地獄絵図である。

理論と実戦の乖離は、大戦前半とくに交戦国を苦しめた。フランス軍などは羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くがごとく、

「人力をもって機械力に抗することはできない」
「歩兵は砲兵の援助なくば前進してはならない」
「『1コ師団の歩兵で奪取できなかった敵の陣地は3コ師団の歩兵をもって奪取すべし』との思想は誤りである」

などと教令に書き、戦前とは正反対の思想に世界を驚かせた。


戦術の変化
西部戦線における戦術の変化の古典的見解は「ドイツ軍は方法を変えることで陣地戦の突破を可能にしようとし、英仏軍はテクノロジーにより解決しようとした」である。わが国で第1次大戦の戦術解説書として最高峰と言っていい参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察』もこの見解に従っている。

西部戦線で主に攻勢を主導した英仏軍は、大戦初期において、敵の残存機関銃・火砲に悩まされた。砲撃をしても、そのあと歩兵が進むと、生き残った敵兵がしぶとく反撃してくるのである。この反動で英仏軍は狂ったように鉄量を浴びせかけるようになった。

その中で、精緻化された結晶の一つが“移動弾幕射撃”である。生き残った敵兵が反撃してくるのであれば、その敵兵が頭を上げられないようにすればいい。味方の歩兵の前進と合わせて砲撃も前進させればいいのだ。厳密に時間を区切ったスケジュールで弾幕が前進し、これに合わせて歩兵も前進した。当時の通信技術の限界から歩・砲兵間で連絡がうまく取れず、しばしば弾幕射撃の移動が先行し過ぎたが、相当な効果を挙げた。

1916年ヴェルダン戦後期や1916年ソンム戦で、英仏軍は数日間・数週間の攻撃準備砲撃を行ったのち、移動弾幕射撃の援護下で歩兵に突撃させた。かれらは敵陣地の“撲滅”を志向していた。敵の障害物すべてを殲滅して突破しようとした。一言で言い合わされるのが「砲兵が耕し、歩兵が占領する」である。

こうしたテクノロジーに頼る英仏軍の方式は、1917年ニヴェル攻勢で限界を示すことになる。勝利を約束したニヴェル将軍による攻勢は大失敗し、フランス軍兵士が反乱を起こす騒ぎにまで発展した。フランス軍は混乱をなんとか治めることができたものの、もはや攻勢を行える気力はなくなった。

代わって攻勢を主導したのがイギリス軍である。1917年中の攻勢で、ドイツ軍の縦深陣地に果敢に挑戦した。新しく登場した戦車が幾分活躍したものの、敵線後方まで突破することはできなかった。パッシェンデールの戦いの途中でついにイギリス政府から待ったをかけられ、イギリス軍の攻勢は挫折に終わった。


これと対照をなすのがドイツ軍である。かれらは英仏軍よりも砲弾使用量で劣り、移動弾幕射撃にあまり頼れなかった。であるので、かれらは敵陣地の“撲滅”を諦め、“制圧”し同時に混乱に貶めて敵陣地の“無力化”を図ろうとした。

奇襲効果をなくしてしまわないよう攻撃準備射撃は数時間とされ、砲撃は毒ガス弾を混ぜて敵を混乱させようとした。この砲撃に間髪入れず歩兵が突撃した。歩兵には「後顧の憂いを考えず、敵強点を避けて抵抗の弱い場所をできるかぎり突破していくこと」が指導されていた。この歩兵戦法が俗に“浸透戦術”と呼ばれているものである。そして、歩・砲兵の協同作戦全体が“ユティエ戦術”とか広義の意味での“浸透戦術”と呼ばれている。

英仏軍は戦力の集中を重視していた。戦略次元では連合国間での同時攻勢を何度も計画していた。作戦次元では、英仏軍の協同作戦を重視していたし、戦術次元では、1コ師団の前進距離は規制され攻撃衝力を失わないうちに他の師団と交代させようとしていた。

一方、ドイツ軍は戦機を重視していた。1918年「陣地戦における攻撃」教令によれば、攻撃師団は力ある限り前進することになっていた。師団の交代は行わず、一気に突破して敵の防御システムを麻痺させ、さらに全面崩壊へと導くことを目指していた。のちの1940年西方戦役のドイツ軍の圧勝から翻って、第1次大戦のドイツ軍の手法は称賛された。


冷戦期の研究
冷戦期の研究はドイツ軍の優越を踏襲している。

ベトナム戦争に敗退したアメリカ軍はテクノロジー偏重の思考を反省し、軍事史を見直して軍事思想を発展させようとした。俗にいう、クラウゼヴィッツ・ルネッサンスである。この中で、第一次大戦期のドイツ軍も注目された。

アメリカ軍人Timothy Lupferは、ドイツ軍人の個々の努力の結晶により戦術が発展していったことに注目している。イギリス軍は戦術的ジレンマを解決するのにしばしば戦車や大砲といったテクノロジーに頼った。1918年春季大攻勢でもドイツ流の防御陣地を形だけ真似していたが、その真意を理解しておらず、ユティエ率いるドイツ第18軍に大突破を許した。

これとは対照的に、ドイツ軍は発想を変えることで陣地戦を打破しようとした。ルーデンドルフ、ガイヤー、ブルフミュラー、ローワ、ロスベルクといった個々の創意を注意深く観察し、戦術に取り込んでいった。これにより1918年春季大攻勢での躍進を可能にしたという。

同じくアメリカ軍人のBruce Gudmundssonは、ドイツ軍の優位を主張しつつも「陣地戦という難問題を解決するために、連合軍はテクノロジー的解決に走り、ドイツ軍は戦術的解決に走った」というテーゼを否定している。ドイツ軍の戦術的解決は多くの新兵器――火炎放射器、軽機関銃、歩兵砲、迫撃砲、手榴弾、小銃榴弾、短機関銃など――を用いたものであり、連合軍の移動弾幕射撃、間接機関銃射撃、“砲兵が耕し歩兵が占領する”というアイディアは戦前の参謀大学なら教えられなかったことである。両軍の革新は共に、新しいテクノロジーと新しい戦術の結晶であった。

これを踏まえてドイツ軍戦術の革新について、Gudmundssonはまず分権を挙げる。中央集権的なイギリス軍やフランス軍と違い、地方分権的なドイツ軍には下級将校も教範の精神に反しないかぎりアレコレ試す自由があった。

ドイツ軍を分権化した要素は自己啓発的な将校団である。ドイツ軍は英仏軍のように教範がきびしく規定したものではなく、もっと観念的なものだった。戦術問題で、ほかの軍隊では尋ねられる前に答えが用意されていたが、ドイツ軍では「どうやってあの丘を攻撃するのか」、「貴官は攻撃支援の機関銃をどう運用するのか」といった正解のない質問をする。これらの質問の習慣は、いまだ見たことのない状況に適応しようとする際に、ドイツ軍に明確な利点を与えた。

最後に工兵である。公式の突撃隊は歩兵ではなく工兵から生まれた。歩兵と違い、工兵は要塞戦を知悉しており、陣地戦の突破問題に対して先んずることができた。地雷の設置や架橋といった危険に満ちた仕事をしていたかれらは、戦争に対するロマンチックな感情から解放されており現実に即した対処ができたという。


イギリス軍の再評価
こうしたドイツ軍優位の状況のなか、1990年代以降イギリスの軍事史家の間でイギリス軍再評価の動きが強まってきた。

かれら再評価派の論点について三つ述べる。

一つ目は、第一次大戦の悲惨さのイメージはメディアが誇張してきたものであること。
二つ目は、戦術次元でイギリス軍はドイツ軍と比べてとくに劣っていなかったということ。
三つ目は、イギリス本国軍と自治領軍(オーストラリアやカナダなど)の間の戦闘効率もまた変わらなかったということである。

一つ目。第一次大戦当時の政治家や将校がいなくなっていった1960年代、ドキュメンタリーシリーズ「第一次世界大戦」が放映され、イギリス国民に衝撃をもって迎えられた。稚拙な指揮により、イギリス兵士がソンムやパッシェンデーレの泥沼の中で次々に死んでいく姿が流されたのである。

テレビ放映を巡って、リデルハートに代表されるような「イギリス陸軍を低く見る」評価を踏襲し強化する者たちと再評価派との間で論争となった。どちらの方とも自分たちの意見をテレビに反映させようとしたが、視聴者の方はイギリス軍無能説に傾いた。70年代、80年代を通じてソンムとパッシェンデーレの悲惨な死の物語が再生産され続けることになる。

1917年4月9日の英第17軍団の半マイルの前進や9月下旬のプルーマーの作戦、第3軍によるカンブレーへの突撃の成功といったイギリス軍の戦術的成長はほとんど共有されず、1918年最後の100日間の攻勢の成功も忘れ去られた。

しかしながら、再評価派はこう主張している。大戦前半たしかにイギリス陸軍は多くの失敗をしたが、かれらの「学習曲線」は1917年後半から急上昇し、敵が太刀打ちできないほどの優れた戦闘効率を有するようになったのだと。再評価派は90年代以降、イギリス大陸派遣軍とヘイグ元帥の名誉回復に努めている。

二つ目。ドイツ軍の優越は戦間期からずっと言われていることである。イギリス軍について、Gudmundssonは「熱狂的な小部隊リーダーシップを取ったが、戦術的には無能なスクールボーイだった」と酷評しているし、Denis Winterなどは訓練未熟、装備粗悪、低質な参謀業務に支援され、任務を行うに不十分な将軍たちに指揮されていた。「かれらは“なまくらの剣”だった」と断言している。

イギリス軍とは対照的に、ドイツ軍の優越でよく言及されているのが突撃隊である。

Gudmundssonが言っているように、工兵から派生して誕生した実験的な突撃隊は、試行錯誤の末それまでの戦術を根本から変えた。大戦前のような散兵線の前進ではなく、小隊規模の突撃隊による奇襲突撃へ変えたのである。

攻撃前進間、敵を制圧するため支援兵器(機関銃、歩兵砲、塹壕砲、間接砲兵、火炎放射器など)が用いられ、手榴弾を装備した兵が突入して塹壕内を掃蕩した。戦闘指揮の焦点は少尉や下士官に移り、かれらは独自の判断で戦場を駆け巡るようになった。

突撃隊の手法を基礎として、1916年12月、ドイツ軍は1906年版歩兵操典にかわる「戦時徒歩部隊訓練教令」を発布する。これにより歩兵は公式にすべて突撃隊化された。

このドイツ軍の成功物語に対し、Paddy Griffithを主とする再評価派は真っ向から反論している。

Griffithは、ソンム攻勢の時点で英大陸派遣軍のドクトリンはすでにドイツ軍の“突撃隊戦術”とよく似たものを生み出していたのだと主張している。それはつまり「積極的に、できるかぎり前方へ突進すること。敵線後方を掃討し、固めること」である。

西部戦線で繰り返された小部隊による塹壕襲撃によって、イギリス軍も歩兵の浸透、近接火力支援の重要さ、少尉や下士官に指揮を移譲すること、そして“任務指揮”を学んでいった。ソンム戦はたしかに悲惨な結果で終わったが、戦術的には近接火力兵器としての迫撃砲、ルイス機関銃、小銃榴弾の価値を証明した。そしてそれは、歩兵が自らの意思で前進して戦闘することを可能としたのである。

これらの戦訓は、1916-17年冬を通して一般歩兵に波及していった。ソンムの経験はマニュアルにより具体化された。1916年12月には「師団攻撃訓練に関する訓令(SS135)」が、1917年2月には「小隊攻撃訓練に関する訓令(SS143)」が配布される。とくにSS143はドイツ突撃兵ハンドブックと言ってもよいような内容のものだった。

これまでのイギリス軍の評価は、大砲や戦車などテクノロジーを重視していたとしている。しかし、再評価派は、それよりもイギリス軍が“諸兵科連合”を重視していたのだと主張する。リデルハートやフラーらによって、1917年カンブレー戦や1918年アミアン戦での戦車の効果が強調されたが、戦車の効用は概して限定的だった。戦車は機械的信頼性の低さから、作戦が始まった途端から次々と故障していった。それに砲兵の直接射撃に弱かった。第一次大戦期の戦車は有効であったが、効果が持続しなかったのである。かれらは歩兵の支援兵科として甘んぜざるを得なかった。

再評価派は、カンブレーやアミアンの成功を戦車という狭い枠組みではなく、もっと大きな枠組みに捉え直している。大戦末期のイギリス軍は、砲兵の弾幕射撃、航空機による地上攻撃、戦車の突撃、これに主兵たる歩兵が協同して攻撃を遂行した。この諸兵科連合作戦により1918年最後の100日間の戦いで、ドイツ軍を押し潰すことに成功したのだという。

大戦終盤には、ドイツよりもイギリスの戦闘効率の方が勝っていたのだと再評価派は主張している。

三つ目。大戦終盤においてイギリス本国軍は消耗し切ってしまい、自治領軍が主役を務めるようになっていたのだとしばしば語られている。

1918年春季大攻勢で敗走するイギリス本国兵の姿を聞いて、オーストラリア人のモナッシュ将軍やオージーたちは本国兵を厳しい目で見るようになった。それからアミアン以後の100日間の戦いは、イギリス本国軍の名誉を回復する暇なく終わってしまった。

再評価派の見方では、そもそも戦術を改善していったのはイギリス大陸派遣軍の一部でしかない自治領軍ではなく、イギリス本国兵である。

それに加えて、Peter Simkinsは100日間の戦いでの師団攻撃例を統計的に分析し、自治領師団と多くの本国師団で攻撃成功率が同じほどであったことを証明している。

本国軍は1918年に1コ師団12コ大隊から9コ大隊に削減されていたが、自治領軍は12コ大隊を維持していた。さらに本国軍の師団はバラバラの大隊から寄せ集めで再編成され、自治領軍の師団と比べて団結力に欠けるところがあった。これらを考慮すれば――アミアンなど華々しい舞台に立っていた自治領軍に隠れて見えていないが――本国軍もよく戦っていた。


2015年現在、筆者の知るかぎり、再評価派の主張は全面的とはいかないまでも英語圏の多くの歴史家とライターに受け入れられている。

これら再評価派の主張は、デイヴィット・スティーヴンソン「西部戦線での統合・諸兵科協同作戦」『統合及び連合作戦の歴史的考察 平成26年度戦争史研究フォーラム報告書』や、ブライアン・ボンド『イギリスと第一次世界大戦 歴史論争をめぐる考察』により日本語でも知ることができる。


その後のイギリス軍
1920年代までイギリス陸軍は世界の最先端を走っていたはずなのであるが、その後失速した。

戦間期の軍縮ムードで軍事予算が減らされた。フラーら戦車将校は諸兵科連合を忘れ、戦車至上主義に走った。通信技術はずっと第一次大戦装備のままだった。独立軍種となったイギリス空軍は、陸軍の下で戦わされるがごとき近接航空支援を嫌がった。

1930年代後半以降、ドイツの軍拡に対抗して少しずつ改善されていったが、ドイツ軍が先に戦争を仕掛けてきたためになし崩しの形となり、イギリス陸軍は1944年にいたるまで戦術の改善に苦しみ続けることになる。




参考にしたと思われるもの。

参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第四巻)』偕行社、1925年。
参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第五巻)』偕行社、1926年。
デイヴィット・スティーヴンソン「西部戦線での統合・諸兵科協同作戦」『統合及び連合作戦の歴史的考察 平成26年度戦争史研究フォーラム報告書』47-56頁。防衛省防衛研究所、2015年。
Lupfer, Timothy. The Dynamics of Doctrine: The Changes in German Tactical Doctrine During the First World War. Fort Leavenworth, Kansas: Combat Studies Institute. U.S. Army Command and General Staff College, 1981.






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