勝利をもたらした兵器?

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撃破されたマークⅣ戦車。 © IWM (Q 14571)

第一次大戦での戦車誕生の物語は有名である。イギリス軍に勝利をもたらした兵器であるとさえ言われている。しかしWW1の戦車をWW2の戦車のように見てはならない。第一次大戦時代の戦車は装甲がうすく、速度もおそく、機械的信頼性が致命的に欠けていた。

今日から見れば、第二次大戦の機甲部隊は、第一次大戦の陣地戦が再現されることを防ぐ一役を担っていた。となれば第一次大戦の戦車も陣地戦を打破したものと考えてしまいがちである。しかしこれは単なる後知恵にすぎない。

第一次大戦に誕生した戦車は、将来の革新を予感させるものだった。が、のちの歴史から見てしまうのはよくない。1918年イギリス大陸派遣軍の使っていたさまざまな戦車は役に立った。しかし絶対必要なものではなかった。戦争に衝撃を与えたような革命的なものでは、決してない。


1916年9月15日

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ソンム戦に参加したマークⅠ戦車。 © IWM (Q 5572)

戦車のデビュー戦、1916年9月15日の戦闘について、戦車の生みの親スウィントンは回想録で「大量の戦車が一度に投入されなかったこと」を嘆いており、のちの歴史家もそれに追随する。しかし、スウィントンは「大量の戦車が一度に投入する」という戦術的アイディアは持っていたが、それをどう用いれば決定的勝利につながるものになっていたか明らかにしていない。おまけに、少なくとも6月26日あたりまで、ヘイグの総司令部もスウィントンのアイディアに沿って計画を進めていた。

ヘイグの要求に対し、スウィントンは8月中旬までに75台の戦車とクルーを用意することに同意していた。しかし戦車はなかなか送られてこない。ヘイグと総司令部は失望し、計画は戦車小部隊の投入に変更された。

9月中旬までに3コ戦車中隊がフランスに送られたが、戦車兵は一般に訓練未熟で、1コ中隊は深刻なほどに訓練がなされていなかった。そして、9月15日に戦闘可能状態にあったのは、49台のみ。攻撃開始線にたどり着くまでに13台が落伍した。戦車の致命的な信頼性のなさが現れている。

いわれのない中傷を受けているが、ヘイグは戦車の可能性を信じていた。しかし数ある兵器のなかの一つでしかない、とも考えていた。試行錯誤により、運用法を探し出していけばいいと思っていたのである。実際、先例がなく、歩兵との協同も不十分で、その方が現実的であった。




カンブレーとアミアン
カンブレーとアミアンの戦いは、第一次大戦の戦車運用の好例である。それは戦車軍団のイニシアチブではなく高級司令部のイニシアチブであり、決定的兵器ではなく歩兵の支援兵器であり、戦車戦ではなく諸兵科連合戦であるということである。


高級司令部のイニシアチブ

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サー・ジュリアン・ビング将軍とフランス将校。 © IWM (CO 1382)

戦車信奉者が書いたものによると、カンブレー作戦の発案はフラーということになっているが、それを裏付ける同時代史料はない。反対に、戦車軍団長エリスの戦後間もない回想によれば「計画は(第3軍司令官)ビング」によるものであり、かれは「準備砲撃なしの攻撃」を考えていた。戦車軍団に作戦計画を策定する権限はなく、エリスはカンブレー作戦のことを秘匿していた。フラーら参謀が作戦を知ったのは、計画が進んだあとだった。

カンブレーを戦車戦と呼ぶことにも語弊がある。カンブレーを可能にした革新は砲兵の試射なしの射撃法だった。これにより敵に予期されることなく、作戦開始するやすぐに効果的な火力支援を行うことができるようになった。ただ、準備砲撃を行わないとすれば鉄条網が障害となる。それを解決するための戦車だった。戦車を使い、鉄条網を踏みつぶせばいいのだ。カンブレー作戦を支えたのは戦車のみではなく、芸術的なまでに発達した砲兵戦術、現代と変わらないまでに進化した歩兵戦術あってのものである。

フラーやリデルハートらは高級司令部が戦車の投入を妨げたと批判する。が、ビングやローリンソンといった軍司令官は戦車を活用しているし、ヘイグは戦車の増産を要求し、総司令部は戦車運用に関する訓令を出している。


歩兵の支援兵器

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アミアンの戦いでのマークⅤ戦車。 © IWM (Q 7302)

実際に戦闘に投入された戦車は驚くべき速さで消耗した。カンブレー戦では、378台の戦闘車両が投入されたが、一日で179台が失われた(消耗率47%)。アミアン戦では、マークⅤ342台、ホイペット72台、支援戦車120台が投入されたが、二日目には戦闘可能車155台にまで激減した。戦車は装甲に守られているはずだったが、ドイツ軍の特殊な小銃弾(装甲貫通弾)に弱く、動きの遅さが相まって砲兵の直接射撃にも弱かった。戦車内部は風通しがわるくガソリンのにおいが充満し、振動と騒音は耐えがたかった。そして、すぐに故障した。

装甲が不十分で、動きが遅く、居住性が最悪で、機械的信頼性に欠ける――決定的兵器になるわけがない。戦車は、歩兵の一支援兵器にとどまらざるを得なかった。


1918年の諸兵科連合戦

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ドイツの対戦車ライフルを鹵獲したニュージーランド兵。 © IWM (Q 11264)

後世の人はしばしば「アミアン規模の戦車の大量投入が1918年後半戦でなかったこと」を嘆く。しかし、一つの作戦がもはや偉大なる効果をもたらさないことを経験していた連合軍は、異なる軸からの攻勢を次々と繰り出していた。アミアンのように一つの軸で、準備に時間をかけてというわけではない。

カンブレー作戦が決まったのが8月、戦車軍団の将校が説明を受けたのが10月25, 26日、作戦が開始されたのが11月20日。アミアンの準備には3週間かかった。これほどの時間を費やしてまで戦車を待つ必要はあったか。いまや戦場は陣地戦から運動戦に回帰していた。

1918年のアミアン戦が始まったとき、イギリス軍は1914年とはまったくの別物となっていた。イギリス歩兵はかれらなりの“浸透戦術”を行うようになっていたし、砲兵は間接照準射撃が全盛となり芸術的な砲術を行うようになっていた。航空部隊は近接航空支援を行うようになっていた。そして、1918年のイギリス軍はこれらすべてを“調和”させ、効果的に扱う術を身に着けていた。

戦車だけが活躍したのではない。歩兵が、砲兵が、騎兵が、航空兵が、すべての兵科All Armsがそれぞれの役割を演じていた。この第二次大戦さながらの諸兵科連合戦こそが、ドイツ軍を押し潰す原動力となったのである。




デイヴィッド・スティーヴンソン「西部戦線での統合・諸兵科協同作戦(1918年)」『平成26年度戦争史研究国際フォーラム報告書』47-56頁。
J.P. Harris. "The Rise of Armour." in British Fighting Methods in the Great War, 113-137.




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