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●苦悩する騎兵

ソンム10月
休息中のハイランダー、Mametz Woodの北にて、1916年10月。(IWM Q 4445

1916年のソンム戦役は両軍に莫大な損害をもたらしておわった。

イギリス騎兵軍団は冬営のため、前線から後方地域に退いた。思うように活躍できなかったイギリス騎兵は方針の転換を迫られた。

一つは、「騎兵精神」の立て直しである。騎兵軍団の一般参謀ホームは、ソンム戦の終末を見て「われらの騎兵はのろくなった」と思い、もっと速くならなければならないと感じていた。ヘイグもまた同様である。1916年の訓練では、徒歩による塹壕戦に時間の多くが割かれた。歩兵のように固定的な状況に慣れてしまい、そのため、騎兵特有の“果敢で迅速な機動”の主義を忘れてしまったのだとヘイグも感じていた。このような状況は終わらせなければならない。ヘイグは布告を出し、冬季訓練プログラムでは運動戦の訓練に時間を費やすよう指導している。ソンムの大失敗にもかかわらず、かれは騎兵の大突破をあきらめていなかった。

司令官の信念は何者にも曲げられぬほど強固なままであった。しかし、とらえにくい、二つ目の方針転換を騎兵は行っていた。“すき間への突撃”はあざけりをもって呼ばれようが、公式的には堅持されていた。「しかし、“すき間”はより短いものになった」、第5騎兵旅団、第20驃騎兵連隊のダーリング大尉は回想する。「ワーテルローのあとプロイセン騎兵が行ったと言われるような、夜通し喊声を上げながら猪突に追撃するようなことはなくなった。1916年のソンムで行うことになっていた、遠い飛行場への襲撃もない、鉄道交差点への襲撃もない、敵司令部への襲撃もなくなった」。1

歩兵との合同訓練では、次のようなことが行われた。騎兵が比較的近い目標を占領し、陣地を固める。そして支援部隊が追いついてきてこれと交代するのである。1916年の経験から大突破はあまり現実味がないと判断され、より限定的な戦術的目標へと任務が変化していった。この1916/17年冬の変化こそが、1918年西部戦線での騎兵の戦勝の基礎となるものであった。ただこの変化は騎兵自身に浸透し切っていなかっためそれに対応した編制になっておらず、さらに歩兵や砲兵と協同した、諸兵科連合作戦もこの時点では存在しなかった。


冬の間、騎兵を悩ました問題もまた二つある。一つは、補充兵である。1916年の冬、参謀総長のロバートソンは、騎兵として採用した新兵を歩兵(ときには工兵)としてフランスに送っている。本国にいた15,000名もの騎兵予備は、1917年2月初めまでに5,000名を下回るほど激減し、ヘイグを騒然とさせた。フランスにいる騎兵連隊のいくつかは、戦力が大きく落ち込んだうえ、訓練さえ十分に受けることができていなかった。2

これに追い打ちをかけたのが二つ目の馬への食料不足である。ある騎兵将校の日記には、11月のおわりに第5軍砲兵学校に視察したときの状況が記されている。それによれば、カラスムギが定量の12ポンドからたった6ポンドに減らされ、「非常にやせて見えた」という。第1騎兵師団でいえば、11月には半分の6ポンドに減らされ、第15驃騎兵連隊などこれすらも満たすのがむずかしく、日に5ポンドがやっとであったという。3

例年にない寒さがこれにいっそうの苦難を与えた。1916/17年の冬はとても寒く、4月にアラスの戦いが始まったときでさえまだ雪が降っていた。極寒と雪は馬の足を痛めつけるのに十分であった。これに対する各騎兵部隊の解決方法は二つに別れる。一つはこの環境に順応させるためよりいっそう働かせるという手法で、馬の高い損害率を伴った。もう一つは、凍傷にならないよう馬屋に置いておくというもので、安全な代わりに戦闘任務に適さないほどにぶくなった。


皮肉なことだが、乾坤一擲の機会に恵まれない騎兵は、歩兵とはちがい、経験豊富な将校・下士官兵が跡形もないほどすり減ってはいなかった。後述するように、騎兵たちは戦前からの「騎兵精神」を忘れてはおらず、“すき間への突撃”を虎視眈々と狙っていた。だが、精神的高揚にもかかわらず、物質的欠損のために、1917年のこの決戦のときに、アラス、パッシェンデーレ、カンブレーでの戦いのときに、弱体化した状態で挑むことを強いられることになる。




●ヒンデンブルク線への退却

連合軍が次なる攻勢を準備していた1917年3月、ドイツ軍は突如として撤退を開始した。フランスのアラスから下に伸びてソアッソンの間において、突出部を捨てて平らになるよう後退し始めたのである。連合軍よりも食料状況がひっ迫しているドイツは戦線を整理して兵站の負担を軽くさせたかったし、背後に築いた強力な防御線――連合軍はヒンデンブルク線と呼んだ――で足止めをしようとしていた。

ドイツは無制限潜水艦戦を再開。参謀次長のルーデンドルフはアメリカが参戦してくるかもしれないという危険を十分に知っていたが、この無制限潜水艦戦こそが戦争の趨勢を決するものになると期待していた。そして西部戦線に強力な防御線を構築し、時間稼ぎをしようとしたのである。

hindenburg2.jpg
OH, 1917, vol. 1, Sketch 4 より引用。

撤退するドイツ兵はなにもかも壊していった。カナダ騎兵旅団に同行したSeely准将は破壊のさまを記録している。「家はすべて地面から1メートル内外に潰されており、木はすべて、大きいも小さいも関係なく、果樹や庭園も伐り倒されていた」。4

ペロンぬ
破壊されたペロンヌの通りにたたずむイギリス兵。(IWM Q 78873

当事者であるドイツ兵エルンスト・ユンガーはこう回想する。

「ドイツ軍が退却した沿道の部落は、どの家も退却するドイツ兵の手でめちゃめちゃに破壊された。
住民が遺棄した婦人服やシルクハットなどを首に巻いたり頭へ載せたりして、大勢の兵が途轍もない熱狂ぶりで村を駆けずり回った。一つの家へ数人で駆けつける。だれかがその家の大黒柱を見つけ出す。すぐにそれへ綱をかけ、かけ声勇ましく引っ張って、どうでもこうでも引き倒す。大きな槌を振り回して、家の入口にある水瓶から、庭の温室のガラス張りにいたるまで、手当たり次第に壊して歩く。こんな調子で、ジークフリートの陣地までの部落は、徹底的に破壊された。道路の下には地雷を埋め、井戸には毒薬をぶち込み、川をせき止めて氾濫を起こし、地下室は破壊するかさもなくば中へ爆弾を設置し、貯蔵品や金属類はのこらず集めて運び去り、レールのネジをねじ取り、電話線をはずした。そして、のこしておくものはできるだけ火をつけて焼いた。こうして追撃してくる敵が当てする部落は、見る影もなく荒廃してしまった。」5

英仏軍の前進を遅らせ、資源を使用させないとする行為の軍事的価値はたしかにあったが、破壊の惨状にくわえ各所に設置された地雷とブービートラップは、イギリス兵とフランス兵にはげしい敵愾心を呼び起こしたのもまたたしかであった。




●騎兵による追撃

フランスのニヴェル将軍による連合攻勢作戦を準備中であった英仏軍はドイツ軍の撤退に驚きを隠せなかったが、すぐさま追撃を決めた。“追撃”となれば騎兵の出番である。

3月16日、ヘイグは騎兵軍団長のキャヴァナに指示を書き送っている。一つ、敵に対し圧力をかけ続けるべし。この目的を達する必要最小限の戦力をもって敵の後衛を混乱させること。二つ、敵の防御を突破し、北からヒンデンブルク線を回りこみ、カンブレーの方向へ行動する目的を持って、最大可能戦力をもってしてアラス・ヴィミー前面の敵を打撃すべし。

3月14日に第4軍正面のドイツ軍が撤退を始め、3月17日に第5軍正面の敵が撤退し始めた。これにすぐ応じることができるのは歩兵軍団所属の軍団騎兵連隊しかない。ただ、やはりこれだけでは不足と見えて、19日、騎兵軍団から2コインド騎兵師団――冬の間に第4騎兵師団と第5騎兵師団に改編された――が送り込まれた。第4師が北の第5軍、第5師が南の第4軍である。

イギリス大陸派遣軍の持てる騎兵の40%ちかくを押し出したが、軍団騎兵をわずかに上回る戦力しか投入されなかった。第4騎兵師団は、3コ歩兵軍団からなる第5軍に対し、1コ騎兵旅団のみ前方に投入し、それぞれ軍団ごとに1コ騎兵連隊が当てられた。第5騎兵師団も同じ調子である。“必要最小限の戦力をもって対処すべし”とのヘイグの意向が反映されていた。のちにフラーなどは追撃における騎兵の消極性を暗に批判したが、はじめから最少戦力しか持っていなかった。

破壊された村を通る騎兵と自転車兵
破壊された村を進む騎兵と自転車兵。(IWM Q 1869


第5軍方面では、ドイツ軍が巧妙な陣地を構築していたために力攻めの強襲をしなければならず、したがって騎兵の役割も偵察・警戒や側面援護に限定されたが、もっと防御陣地のうすい第4軍方面では活発に活動した。

第4軍に派遣された第5騎兵師団は3月24日、Bapaume-Peronne道の東約8キロの地点で軍団騎兵と交代。師団隷下のカナダ騎兵旅団が先導として突き進んだ。旅団はドイツ軍の前哨を襲撃しつつ進んだが、もっとも注目に値するのが27日の戦闘である。

3月26/27日の夜、カナダ騎兵旅団はLieramontを占領。次なる目標は東に3キロのVillers Faucon村、北に並ぶGuyencourtとSaulcourtである。この時点で旅団は、2コ騎兵連隊――第8驃騎兵連隊とウィルトシャー義勇乗馬兵連隊――、装甲車数台、3コ砲中隊、1コ騎砲中隊の増強を受けていた。

攻撃は北と南からの包囲に決まり、カナダ騎兵旅団が北からGuyencourtを狙い、第8驃騎兵連隊は南からVillers Fauconに向かった。下ごしらえとして、13時ごろ、王立カナダ竜騎兵連隊の1コ中隊がLonggavesnesから東に1キロを進み、ドイツ軍の前哨を見つけるや突撃して、剣により3名を殺害、9名を捕虜とした。この地点を占領したことで機関銃による支援を受けやすくなった。

本隊の攻撃は16時30分および17時10分に始まった。40分におよぶ攻撃準備射撃のあと、吹雪にしばし立ち止まらせられながらも、旅団は北西から襲歩にて前進。ロード・ストラスコナ乗馬兵連隊がGuyencourtへ、フォート・ギャリー乗馬兵連隊がSaulcourtへ突進し、ウィルトシャー義勇乗馬兵連隊がこれの北に展開して側面を援護した。2コ連隊が目標に接近するあいだ、砲と機関銃は“さいごの一瞬まで”援護射撃をつづけた。廃墟と化した村にたどりついた両連隊は、下馬して徒歩で戦い、18時までに両方とも占領した。敵機関銃のために乗馬しての追撃は不可能だったが、ホチキス機関銃のチームがSaulcourtの東にすばやく展開し、退却する敵に対し打撃を与えることに成功した。

この戦闘間、ロード・ストラスコナ連隊のハーヴィー中尉は鉄条網を乗り越えられないと知るや、馬から降りてこれを飛び越え、リボルバー片手に陣地に突入、機関銃一丁をぶんどった。この功績により、ヴィクトリア勲章の名誉を得たという。

hindenburg1.jpg
Anglesey, 71より引用。

南のVillers Fauconを狙う第8驃騎兵連隊は、17時ごろ砲撃がまだ続いているなか吹雪に悩まされつつ移動を開始した。B中隊は西からすみやかに接近し下馬して火力攻撃を行い、D中隊は南から接近して乗馬攻撃の機会をうかがった。この攻撃には装甲車2台も参加し、敵を引きつけるため街道を通ってVillers Fauconに近づいたが、不幸なことに敵機関銃の装甲貫通弾により2台とも射すくめられてしまった。結局、2コ中隊は下馬して村に突入、18時までにVillers Fauconを占領した。第8驃騎兵の損害は死者2名、負傷者15名足らず。馬の損害は15頭という。6

パトルール騎兵
パトロール中のインド騎兵。(IWM Q 5062


追撃に参加した騎兵は、毎日のように偵察と攻撃に時間を費やし、合間には塹壕掘って歩兵が追いついてくるのを待ち、それからつぎの目標へ移動した。休息も骨休みの屋根ある場所もほとんどなく、天気はクソと言いたくなるほど寒かった。軍団騎兵は3月19-24日の5-6日で疲れはて、これと交代した騎兵師団もつづく5-6日の作戦日数でへとへとになった。歩兵なら短期間で前線を交代するシステムが陣地戦のなかで採用されていたが、あいにく騎兵には代わりがいない。第1から第3までの騎兵師団はアラス作戦のため使用できなかった。

そもそも機動戦はとても疲れるし、長期間テンポを維持するのはとてもむずかしいのだ。2003年イラクに侵攻した“高度に機械化された”部隊でさえ数日間しか速度を維持できなかった。イギリス騎兵は“果敢で迅速な機動”の主義を忘れてしまったのではない。ひじょうに限定された支援のなかで動きまわり、そして疲れはててしまったのである。

ホームやキャヴァナが懸念したのとは反対に、騎兵は機動戦を忘れたわけではなかった。第5騎兵師団の行動、とくに27日の戦闘はその好例である。野戦砲と機関銃の支援、下馬しての火戦、そして乗馬攻撃の企図。この戦闘とあわせて、騎兵による攻撃はすべて“迂回機動の使用”と“機関銃隊の前進による急速な陣地構築”によって特徴づけられる。大衆軍と化したイギリス陸軍は1917年の「小隊攻撃訓練に関する訓令」で思い出したが、騎兵は経験豊かな将校・下士官兵がまだのこってたために、戦前からの古典的なコンセプトである“火力と移動”を忘れていなかったのである。




注1 Kenyon, 88-89.
注2 Anglesey, 66.
注3 Kenyon, 91.
注4 Kenyon, 93.
注5 エルンスト・ユンゲル『鋼鉄のあらし』佐藤雅雄訳(先進社、1930年)161-162頁。漢字・かな・点を改めた。また「ジークフリード」は「ジークフリート」に改めた。
注6 Kenyon, 99.







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