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●背景

1915年12月6日から8日にかけて、フランスのシャンティーChantillyにおいて連合国の軍事会議が行われた。出席したのはフランス、イギリス、ロシア、イタリア、セルビア、ブルガリアの代表である。

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ジョセフ・ジョフルとウィリアム・ロバートソン。(IWM Q 34843

会議において、フランス軍総司令官ジョフルは“同時期の協同攻勢”により“ドイツおよびオーストリア軍を叩きのめす”ことを主張した。1915年の作戦では、連合軍は個々に戦いを挑み、対するドイツ・オーストリア軍は内線の利を生かしてうまく立ち回っていた。それを反省してのことである。各国代表もこれに異存はなかった。

シャンティー会議のあとの12月19日、フレンチが解任されてダグラス・ヘイグがイギリス大陸派遣軍の司令官となる。また同じとき、ロンドンでは、間に合わせの参謀総長だったアーチバルト・マーレーが解任され、ウィリアム・ロバートソンがあとを継いだ。両名は西部戦線において勝敗を決すべく作戦を練った。

12月29日、シャンティーにおいてヘイグとジョフルは話し合った。ジョフルは「4月か5月にイギリス軍がまず消耗戦を仕掛けるべき」と提案したが、ヘイグは「その役目は両軍が分かち合うべき」と反論した。フランス側には、ドイツ軍との激しい戦闘で人的資源を消耗しているにもかかわらずイギリスは少ししか差し出していないという思いがあったし、ヘイグは大規模作戦に対する政治家のためらいを気にしていた。

そこからヘイグは、まずソンムにおいて攻勢に出て、しかるのちイーペル地区で攻勢に出ることを提案し、ジョフルと合意に達した。1916年1月20日のことである。だが、この合意は両国の国内政治の都合で変えられてしまう。2月24日のヘイグとジョフルの会議では、前段階の消耗戦は廃案となり、ソンムにおいてイギリス25コ師団、フランス40コ師団により一大攻勢をとることに決せられた。

ところがわずか一週間後、英仏軍は作戦の変更を迫られる。2月21日、西部戦線においてイニシアチブを取り戻すべくドイツ軍がヴェルダンに攻撃を仕掛けてきたのである。1

この影響で、フランス軍がソンム戦に用意していた40コ師団は、4月下旬には30コ師団に減り、5月には22コ師団まで減少した。ヘイグはフランス側の意をくみ、ドイツ軍を引きつけるべくなるべく早く攻勢に出ることに決めた。

フランス軍主導で一大決戦をする予定であったソンム作戦は、イギリス軍主導のヴェルダン救援のための攻勢に変わり、イギリス軍の真価が試されることになったのであった。




●作戦構想

来たるべきソンム攻勢の作戦構想について、イギリス軍の方針は割れた。

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ダグラス・ヘイグ。(IWM Q 23636

イギリス大陸派遣軍司令官のヘイグは、1915年の経験から大突破breakthroughは可能であるとの楽観的な考えを持っていた。ヘイグは騎兵を中心とした諸兵科連合作戦を戦前から考えており、ソンム作戦でも騎兵による大突破を構想していた。

歩兵と砲兵が攻撃を始めたらできるかぎり早い段階で騎兵を戦闘に加入させる。そうして敵陣地の“すき間”を突破すれば戦争につかれたドイツ兵が士気崩壊を起こすものとヘイグは確信していた。

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ヘンリー・ローリンソン。(IWM Q 4032

対照的に、攻撃を主に担当したイギリス第4軍の司令官ローリンソンは、ヘイグよりも悲観的な考えを持っていた。かれは大突破よりも小突破Bite and Holdを好んだ。小突破とは、狭い正面に砲兵を集中して戦術的な要点を奪取し、陣地を固めて敵の反撃を撃退する手法である。相対的に戦果も少ないが、リスクも少ない。ローリンソンは、大突破は不可能であると考えていた。

騎兵運用でもローリンソンとヘイグは考えを異にした。

ローリンソンは、攻撃を第一段階と第二段階に分け、歩兵が敵を叩きのめしたあと騎兵が追撃を行う、つまり戦前の伝統的な思想を持ち続けていた。一方のヘイグは、1915年のルースでの経験から、もっとアグレッシブに歩兵が攻撃する初期段階での騎兵の投入を考えていた。

この二つの作戦構想はすり合わせられることなくあいまいなままで終始した。


ローリンソンの第4軍は、最初まずドイツ軍の第一線陣地を占領する作戦案を提出していた。しかしヘイグは満足せず、第二線陣地まで突破するよう変更させた。

さらに「第4軍正面の敵は32コ大隊しかおらず、一週間以内の増援も65コ大隊しか来ない」との情報部の報告を受け、ヴェルダンの消耗戦でドイツ軍が疲弊したいま決定的な打撃を与えることができるとヘイグは確信した。2

ヘイグは、ゴフ将軍率いる予備軍をあらたに編成し、3コ騎兵師団を集めた。1914-5年の終わりの見えない陣地戦に「騎兵は用なし」としてイギリス政府は騎兵を減らそうとしていた。これにヘイグは反発、騎兵軍団を解散させたものの、各軍に騎兵師団を分配させて実質的な戦力を保持していた。そしてソンム戦を控えたとき、予備軍として騎兵を集結させたのである。

予備軍はローリンソン指揮下に置かれた。だがローリンソンは、はなから騎兵に期待していなかった。




●7月1日

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8インチ榴弾砲。(IWM Q 5818

6月24日、イギリス軍の大規模な攻撃準備射撃が始まる。1915年のルースでは18ポンド砲の砲弾37万発用意していたが、今回のソンムでは260万発用意していた。5日間以上にわたる砲撃で150万発の砲弾を発射し、イギリス側はドイツ砲兵57コ中隊を撃破したと評価した。しかし、多くの場所で鉄条網が破壊されていないとも報告されている。もっと悪いことに機関銃を擁するドイツ兵は砲撃に耐えて塹壕に潜んでいた。

ドイツ兵はイギリス軍の砲撃に苦しんだが、ヘイグが攻撃縦深を深くさせたことで相対的に密度が薄くなっていた。しかも砲弾の多くが榴散弾で、地中に造られた陣地を破壊する威力に欠けていた。さらに不発弾多数で、ヒューズがおかしくなっているものも多かった。


攻撃初日――7月1日――は最悪の出だしで始まった。

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行軍する歩兵。(IWM Q 813

イギリス軍は一部で突破に成功したが、側面からのはげしい火網と逆襲に前進を挫かれた。イギリス軍の初日の損害は約6万名にも達し、西ヨークシャー連隊の第2大隊は70%ちかい損害をたたき出し、ミドルセックス連隊の第2大隊など90%にちかい損害を被った。3

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北側と中央における攻撃はほとんど失敗。南部の英第15軍団と第13軍団のみが一部成功した。対照的に、さらに南の、ファヨール将軍のフランス第6軍はイギリス軍よりも戦巧者であることを見せつけた。だが不幸なことに、イギリス軍は大突破のための予備隊を擁していたが、フランス軍はヴェルダンに兵を取られて十分に予備隊がいなかった。

そのとき騎兵はなにをしていたか?


7月1日3時30分ごろ、イギリス軍の騎兵3コ師団は宿営地を出発し、5時30分までに第3および第10軍団後方に到着していた。

ローリンソンは当初騎兵を自らの手元、つまり第4軍司令部ちかくに置こうとしていた。なんと攻撃開始地点から20キロもうしろである。これはヘイグの介入により、開始地点から9キロの地点に変更となった。

イギリス騎兵は、歩兵の攻撃が始まるとすぐに偵察隊を出して戦闘の様子をうかがった。8時30分までには攻撃が失敗しつつあるのが見て取れた。11時30分、ゴフは「14時30分まで移動はない」との命令をローリンソンから受け取っている。

ローリンソンはその日の正午ごろの心境を日記に書き記している――「今日騎兵を投入する機会はない」と。4

15時ごろ騎兵は陣地をたたんで後退し、18時にはさらに西の宿営地まで撤退した。


追撃の機会は、騎兵のいた第3および第10軍団後方ではなくもっと南の第13軍団地区で起きていた。皮肉にもヘイグが騎兵を投入する場所として最初提案していたところである。しかし第4軍の作戦計画では意図されておらず、この方面の追撃の想定もしていなかった。

当の騎兵の悔しさは並大抵のものではない。将校のなかには、6月30日に「諸君、ワーテルロー前夜だ!」と言ってスピーチを始める者もいた。5ところが次の日はむなしく待つばかりである。陣地戦では役に立たないと陰口をたたかれていた騎兵にとって自らの有効性を証明する絶好の機会となるはずであったのに、今回も役立たずで終わってしまった。




●7月14日

2日以降、イギリス軍は小規模な攻撃を続けていたが、ローリンソンは、ヘイグの指示のもと、戦役の第二段階を準備していた。最初、ローリンソンは、7月1日に失敗した北部と中央での大規模な攻撃を考えていた。だが大突破を目指すヘイグは南部での攻撃に変えさせた。

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Anglesey, 46より引用。


作戦は、Montaubanから北へ攻撃してドイツ軍第2線陣地を突破することである。初期目標は左Bazentin-le-Petit、中央Bazentin-le-Grand、右Longuevalとされた。これらの村はドイツ軍第2線陣地のすぐうしろにある。

もしこれらを占領したならばHigh Woodに向かい騎兵は急進する。High Wood付近には部分的な第3線陣地しかない。計画では、ここからさらなる騎兵師団の投入も検討されていた。

攻撃には、7月1日と同じく3コ騎兵師団が参加することになった。騎兵師団は歩兵のすぐうしろに集結することになっていただけでなく、第4軍ではなく第13および第15軍団指揮下になった。より下位の指揮下にあったほうが戦機に対応できる。1日のときの反省が生かされていた。

しかし、ローリンソンは全騎兵を委任することに不安になり、第1騎兵師団と第3騎兵師団をみずからの手元に戻し、第2インド騎兵師団のみを第13軍団に与えた。第13軍団は、戦闘の開始時点で少なくとも1コ騎兵連隊を使うことができ、作戦が進展すれば師団全部を指揮することができることになった。


7月14日の攻撃は、第13軍団と第15軍団の4コ師団22,000名による夜襲で始まった。5分間の強烈な暴風射撃のあと、イギリス兵は吶喊。ドイツ軍は完全に混乱し、立ち直った砲兵が撃ち返したときには、イギリス兵はドイツ軍陣地へ殺到していた。

朝には大成功していることが明らかとなった。イギリス式大衆軍、“キッチナーの新軍”は速成訓練部隊として練度を疑われていた。フランス軍はもちろんのこと、イギリス軍の将官も戦闘力に疑いを持っていた。しかし、フランス軍の連絡将校は「彼らは挑戦し、成功した」と報告し、ヘイグは「この戦争で最高の日だ」と歓喜した。6

このとき騎兵は、第1および第3騎兵師団がローリンソンの手元に置かれたまま前線のうしろで待たされ続けていたあいだ、第2インド騎兵師団のみが忙しく動いていた。

第2インド騎兵師団は13/14日の真夜中に行動を開始、朝8時ごろにはMontaubanに進出していた。師団はそこから偵察隊を出したが、第2線陣地の生きのこりがいて、機関銃で妨害してきた。偵察隊はとても前進できないと報告し、第13軍団によるLongueval占領を待った。

ところがとなりの第15軍団では、第13軍団より進展していてすでにBazentin-le-PetitとBazentin-le-Grandを占領していた。何人もの歩兵師団長がHigh Wood攻撃を提案した。しかし、第4軍も各軍団もドイツ軍の逆襲に備えるため予備をのこしておかなくてはならないとし、「騎兵を待て」と指示していた。皮肉なことに、騎兵も命令を待っていた!

正午ごろ、騎兵がHigh Woodに前進していないことを知ったローリンソンは、第15軍団の第7師団にHigh Wood攻撃を許可した。しかし第15軍団長ホーンHorneは、第13軍団がLonguevalを占領するまで待つことにした。いま前進すれば左右から袋叩きにされることになると考えたのだろう。だが逆に考えれば、High Woodを取ってしまえばLonguevalはおのずから萎む。ホーンはそこに考えが行き着かなかった。

15時ごろ、Longuevalが占領されたとの報告が第15軍団に届いた。この報告はのちに誤報とわかったが、ホーンは第7師団に前進を命令。第2インド騎兵師団のセクンデラバード旅団はこれの側面を援護することになった。

攻撃が18時に延期されたのち、セクンデラバード旅団の第7近衛竜騎兵連隊と第20デカン乗馬兵連隊は18時にMontaubanを出発した。歩兵の前進と合わせて両連隊も前進。第7近衛竜騎兵は20時ごろHigh Woodの東側に進んだ。
※セクンデラバード旅団のもう1コ連隊は予備として取って置かれた。

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戦闘直前の第20デカン乗馬兵連隊。(IWM Q 823

ここで第7近衛竜騎兵の先導中隊はとうもろこし畑にドイツ兵の大群が潜んでいるのを見つけるやすぐさま突撃した。ドイツ兵はすぐに逃げ出し、17名が槍で突かれたうえ、32名が捕虜となった。それから連隊は歩兵と連絡を取るため停止し、防御線を構築した。
※第7近衛竜騎兵はインド式に槍を装備していた。

デカン乗馬兵の方は竜騎兵の右側に前進。このころLonguevalが占領されていないことが判明し、19時30分、デカン乗馬兵にあらたな命令が出された。Longueval villageとDeville Woodを攻撃する第9師団の支援である。

連隊はDeville Woodの北のすそを進み、第3線陣地のFlersに向かって肉薄した。騎兵が突進すると点在するドイツ兵はパニックを起こした。連隊が第3線陣地の500メートル手前にたどり着いたとき、FlersとDeville Woodからの火網によりついに進めなくなる。

第9師団の攻撃は進展せず、これ以上は無駄であると判断したデカン乗馬兵は21時30分ごろ後退し、第7近衛竜騎兵と並んでHigh Wood-Longueval道に防御線を構築した。

深夜、歩兵と交代した両連隊は後退。セクンデラバード旅団も後退した。

この日の損害は、第7近衛竜騎兵連隊が死傷者24名、馬の損害40頭。第20デカン乗馬兵連隊が死傷者50名、馬の死傷72頭という。7

14日の最初の成功はすぐに消耗戦に変わり、チャンスはふたたびやってこなかった。Montaubanに3コ騎兵師団を集結させておきながら、イギリス軍はこれをうまく生かすことができなかったのである。


14日の戦闘について、英公刊戦史は、悪路により騎兵師団は前進を妨げられたと書き、戦後ずいぶん経って当時を振り返った者は騎兵が自殺的な乗馬襲撃により全滅したと回想した。8

7月1日のとき騎兵師団所属の乗用車がぬかるみにはまり往生したことは事実だが、14日の行軍は予定通りに進行している。

そしてHigh Woodで乗馬攻撃が行われたとき、これを目撃した歩兵はダダダと鳴る機関銃の音とともに騎兵が夕闇に消えるとみな死んだのだと思った。事実はただ単に見えなくなっただけである。戦後の第1次大戦文学の論調から騎兵にも“火力にあがらうドンキホーテ”のような悲劇的なイメージを植え付けられてしまったが、本当のすがたはまったく異なっていた。騎兵は、陣地戦の時代でさえその戦術的有効性を証明し続けていた。




●9月15日

7月14日以降、戦闘は完全に消耗戦に陥った。

しかし、ヘイグはこの消耗戦の最後に決定的打撃を与えるときが来ると信じていた。8月中旬、ヘイグは第4軍と予備軍に騎兵を用いた攻撃計画を策定するよう命令する。ローリンソンはあいかわらず小突破による計画を立て、やはり満足しないヘイグは大突破による計画に修正させた。このときヘイグは「ドイツ兵の士気は限界に近づいている」という情報部からの報告に活気づいていた。

9月初めには、3月に解散させられた騎兵軍団が復活し、キャヴァナKavanagh将軍がこれを指揮することになった。騎兵軍団には5コ騎兵師団が集められた。

ヘイグは、いったん敵の主防御線を破ったならば“ほかの兵科に支援された騎兵大部隊が大突破を行う”ことを構想していた。しかしローリンソンは受け入れなかった。かれは最初の歩兵攻撃と騎兵の投入を分けたあげく、騎兵は砲兵の移動を妨げてはならないと指示を出した。


9月15日の戦闘は前と同じような経過をたどった。

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行軍中の第2近衛竜騎兵連隊。(IWM Q 4238

騎兵は前線のうしろで待たされ出番がなかった。わずかに9月26日、第1インド騎兵師団の1コ騎兵中隊が戦闘に参加して気炎を吐いたのみ。

大戦中、騎兵軍団に5コ騎兵師団もの兵が集結したのはこれ一回きりである。その機会をミスミス逃したのであった。




●成長する軍隊

ソンムでの戦闘はあと2か月続いたが、ヘイグの大突破構想は9月に潰えた。ソンムの戦役におけるイギリス軍の損害419,654名、フランス軍の損害204,253名、計623,907名。一方のドイツ軍は、一説によれば538,000名もの損害を被ったという。9

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疲れきって眠る兵士。(IWM Q 1071

戦略レベルでは、イギリス軍はヴェルダンへの負担軽減に成功した。ファルケンハインは“いかなる犠牲を払ってでも陣地を保持する”ことを厳命し、ドイツ兵をすりつぶさせた。そしてヴェルダンと合わせた人的損害は、かれの権威を失墜させた。

しかし、ヘイグとローリンソンの作戦思想のちがいはまちがいなく作戦をダメにした。フランスでいえばジョフルとフォッシュも異なる作戦思想を持っていた。ただかれらは話し合いによって摺り合わせをし、決定的な亀裂を避けていた。ヘイグとローリンソンにはこれがなかった。ヘイグは、ローリンソンにみずからの考えを理解させることに失敗した。


戦術レベルでは、ソンムの戦役は大衆軍としてのイギリス軍の始まりとなった。

7月1日、イギリス軍はフランス軍の手際の良さを見せつけられた。イギリス軍の移動弾幕射撃はフランス軍よりも未熟だった。しかし、戦いが続くにつれイギリス砲兵はやり方に慣れていく。移動弾幕射撃は勝利への特効薬ではなかったが、大戦後半の調整攻撃では欠かせないものとなっていった。

歩兵の戦術ももっと精緻化していった。そもそも「重装備でとぼとぼ歩き、機関銃にやられる」というソンム戦のイメージも一部を誇張したものでしかない。7月1日でさえ、たとえば第13軍団正面ではルイス機関銃手と狙撃兵をともなった軽装突撃隊が運用されていたし、第10軍団の2コ師団は弾幕に“密着して”前進していた。10

そしてソンムでの戦闘が続くにつれイギリス流の小部隊戦闘法が形成されていった。1917年2月に出されたSS143「小隊攻撃訓練に関する訓令」は、その集大成である。このマニュアルは、大戦後半、イギリス軍の小部隊戦術の基本となる。各小隊は擲弾兵、銃兵、ルイス機関銃手、小銃擲弾手のチームに再編構成され、砲兵支援なしでも攻撃できるような火力を歩兵に与えることになった。


そして騎兵。

騎兵は限定的にしか戦闘に参加していないが、一般のイメージとはちがい、鋼鉄の嵐が舞う戦場でも活躍できることを実証していた。好機あらば乗馬襲撃さえ可能だった。かれらは馬だけでなく自動車も与えられており、快速部隊として大きな可能性を秘めていた。

だが、上級将校の多くはヘイグの“騎兵を中心とした諸兵科連合”を理解できず、うまく騎兵を扱えなかった。ただ第15軍団長ホーンがその片鱗を見せただけである。11

加えるに、有線に頼りがちであったために、1テンポも2テンポも遅れて情報が届いた。将軍は作戦が始まったあとしばらく待つしかなかった。これが“すき間への追撃”を難しくさせた。

ソンム作戦でチャンスはあった。しかし騎兵に精通した者がいなかった。それが騎兵にとって悲劇であった。




●ドイツの反応

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鹵獲機関銃を手に行軍するドイツ兵。(IWM Q 55482

ヴェルダン攻撃からのファルケンハインの一連の作戦は失敗に終わった。1916年8月、かれは参謀総長を辞任し、あとにはヒンデンブルクとルーデンドルフが継ぐことになった。

ドイツ軍はヴェルダン戦とソンム戦の結果、72.5万人とも言われる膨大な損害を被った。ヘイグが期待したような士気崩壊は起こらかなったが、ソンム地区でのドイツ兵の士気は深刻なまでに悪化した。もはや人も節約しなければならない。そう考えたドイツ最高統帥部は、人的損害を少なくするよう努め、さらに人に代え得る兵器の増産に励んだ。

戦術レベルでは、ヴェルダンで試されていた突撃隊戦術と高度な射撃技術の重要性が再確認された。12分隊・小隊のような小さな戦闘群となって、側面をかえりみることなく敵弱点へと突進する突撃隊戦術は防御戦(とくに反撃)でも有効なことがわかり、また強烈な攻撃準備射撃は反撃のさい欠かすことのできないものであった。

防御思想そのものも変わった。1914年モルトケのあとを継いだファルケンハインは、防御線を1線から3線へ変更させていたが、「いなかる犠牲を払ってでも陣地を固守すべし」との思想を持ち続けていた。防御戦の専門家で、ソンム戦で独第2軍の参謀長だったロスベルク13も同様である。かれらは徴集兵に一部後退の自由を認めれば戦線崩壊にいたるのではないかと疑っていた。

だが、途方もない人の死は戦術に変化をもたらした。ドイツ軍は1916年12月「陣地戦における防勢会戦統帥要領」を出す。「防勢会戦の目的は、敵の戦力を消耗困憊させ、わが固有の戦力を節約することにある」と述べ、人力よりも機械力をもっと活用すべきだとし、陣地にこだわるよりも(不利な地形は敵にわたし)強力な反撃によって敵を撃破すべきだとした。14さらに砲撃をさけるため戦闘地域内での一時的な後退を認めていた。

もちろんロスベルクを始めとする高級将校たちは自由主義が過ぎるとして反発した。その有効性の是非は1917年の防御戦を通じてわかることになる。




●さらなる挑戦へ

ソンム作戦の悲惨な様子にイギリス政府はがっかりした。膨大な人とモノを費やしたのに大突破はならず、結局消耗戦にしかならなかった。

反対に、ヴェルダン後半戦で見せたニヴェル将軍の鮮やかな手際にイギリス政府は注目した。ニヴェルは、参謀総長が変わり消極的となったドイツをしり目に、巧みに飛行機と砲兵を用い、“砲兵が略奪し、歩兵が占領する”を完全に実現させていた。さらに陰気なヘイグとはちがい、快活で雄弁なニヴェルは政治家にウケがよかった。ニヴェルの言う“勝利の約束された攻勢”に英政府は賛同し、英大陸派遣軍を協力させることにした。

1917年の西部戦線は、フランス軍主導の攻勢で始まることになる。

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1917年エーヌ攻勢のため移動中のシュナイダー突撃砲。(IWM Q 56400



●注

注1 ジャン=ジャック・ベッケール、ゲルト・クルマイヒ共著『仏独共同通史 第一次世界大戦 下』80-82頁。
注2 Stuart Michell, "The British Army's Operations on The Somme," The Battle of The Somme, 100.
注3 Neiberg, 175.
注4 Kenyon, 52.
注5 Kenyon, 53.
注6 Neiberg, 180.
注7 Anglesey, 57.
注8 Kenyon, 67, 69.
注9 Neiberg, 218.
注10 Michell, 109.
注11 Kenyon, 84-85.
注12 Christian Stachelbeck, "The Road to Modern Combined Arms Warfare: German land warfare tactics in the battles of materiel on the Western Front in 1916," The Battle of The Somme, 151-152.
注13 日本では、フリードリヒ・フォン・ロスベルクの名はまったく知られていないが、大木毅「防御戦の獅子ロスベルク マンシュタインが師事した名将」『ヒトラーとナチス第三帝国』103頁でわずかに紹介されている。
注14 参謀本部編『世界大戦ノ戦術的観察(第三巻)』(偕行社、1924年)12-13頁。







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