J.P. Harris. The Rise of Armour.

第一次大戦におけるイギリスの戦車誕生物語は著名である。しかし、第二次大戦のときのような戦車をイメージしてはならない。WW1期の戦車は防護力が不足しており、のろまで、すぐに壊れた。

1916年夏ソンム戦。技術者のスウィントンは回想録で戦車のデビュー戦で集団用法がなされなかったことを嘆いておりのちの歴史家もそれに追随しているが、彼自身なにかうまい方法を思いついていたわけではない。おまけにスウィントンはソンム戦のだいぶ前から戦車をそろえることを英大陸派遣軍に約束していたが、全然そろわなかった。ヘイグとその参謀連は、戦車に魅力を感じていたものの戦車は数ある兵器の中の一つにすぎないと考えていた。試しに使っていくうちにほかの兵器との協同の仕方を探っていけばいいと考えていた。

1917年。初期の戦車(マーク1やマーク2)は1915年のドイツ陣地を想定しており、対戦車用のK弾がすぱすぱ抜けるので時代遅れになりつつあった。歩兵と速度を合わせるのも容易ではなかった。しかしあまり良い成績でないにもかかわらず、戦車隊は拡張され続けた。

カンブレー戦。フラーは自分たちがこの作戦の構想を思いついたように書いているが、準備砲撃なしの攻撃を最初に構想したのは第3軍である。準備砲撃がないため、鉄条網を踏みつぶすのに戦車が必要だったのである。フラーがこの作戦を知ったのはあとのこと。カンブレー戦では、驚くべき速さで戦車は数を減らした。

1918年。マーク4は防弾性が増した。しかし劣悪な車内環境は変わらなかった。春季大攻勢で戦車の活躍するところは少なく、最後の百日攻勢で戦車は再び活躍した。

ハメルの戦いで少しだけ戦車は活躍したが、主役ではなかった。8月8日のアミアンでは324台の重戦車と96台のホイペットが投入された。戦車は歩兵の損害を減らすのに貢献した。ただ、概して、戦車はわき役にとどまった。

歴史家は「カンブレーやアミアンのような集団用法をなぜ続けてやらなかったのか」と思う。戦車は陣地戦のテンポにはついていけても、運動戦のテンポにはついていけなかったのだ。カンブレー作戦が決まったのが8月、戦車軍団の将校が説明を受けたのが10月25,26日、作戦が開始されたのが11月20日。アミアンの準備には3週間かかった。

百日攻勢の戦車は少数ずつ歩兵支援に投入されたが、戦車兵は疲労困憊した。すぐに故障する。居住性は最悪。のろい。ドイツ兵から実際以上の脅威と見なされて格好の標的になる。戦車兵の損害率はとても高かった。

プラン1919など夢物語である。大陸派遣軍の将校も正しくそれを認識していた。戦車は歩兵の損害を減らすのに役立ったが、一支援兵器でしかなかった。


WW1の戦車は将来の革新を予感させるものだった。しかしのちの歴史から見てしまうのはよくない。1918年英大陸派遣軍の使っていたさまざまな戦車は役に立った。しかし絶対必要なものではなかった。戦争に衝撃を与えたような革命的なものでは、決してない。






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