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ミリタリー | 趣味・実用 | 未分類 2016.02.27 (土)
「第一次大戦中のイギリス騎兵は食料とまぐさを大量に無駄使いした」という言説がある。しかしながら、西部戦線のイギリス騎兵部隊は最高期(1915年)に2,5000名を数え、そのうち19,000名が騎乗者だった。ある統計によると大戦間兵卒4,421名が死亡し、14,630名が負傷した。

イギリス大陸派遣軍が大戦間、弾薬約5400万トンを消費したのに比べて、約5900万トンの馬の飼料を消費したのは事実である。しかしながらイギリス騎兵部隊は英大陸派遣軍全体で6%の馬しか使用していなかった。馬の大部分は砲兵や工兵、歩兵など騎兵以外の部隊が保有していた。

サー・ジェイムス・エドモンズ准将は、英公刊戦史『西部戦線の部1918年』で「敵の最後の機関銃が沈黙するまで乗馬襲撃は不可能である」とのアメリカ将校の言に賛意を示している。しかし、その二十数ページ後、カナダ騎兵旅団による乗馬襲撃の成功を描写している。捕虜230名を取り、砲3、機関銃40を鹵獲したという。

1918年8月8日アミアンの戦い初日、(第3騎兵師団所属の)第7騎兵旅団は捕虜300名を獲得しており、その隷下の第7近衛竜騎兵連隊は乗馬襲撃を敢行して成功している。襲撃を行った連隊の損害は死者5名、負傷者43名と少ない。

弾丸は、突撃する騎兵に対し致命傷を与えることが案外難しく、乗馬襲撃が成功した後で傷を負った馬が死んでしまうことが多かった。歩兵と同じように、西部戦線の騎兵もまた、機関銃によってというより砲兵や鉄条網に前進を阻まれた。






西部戦線での乗馬襲撃も時々行われていて成功している。イギリス騎兵はその戦術というより煩雑な参謀業務により効果を弱めた。

ソンム戦で騎兵を無視したローリンソンはソンム戦の後で一部認識を改め騎兵の有効性を再認識した。

しかしながら、ヘイグは「歩騎砲を中心とした諸兵科連合all armsの快速集団によって、敵線後方の大突破を構想していた」が、ローリンソンは蚕食攻撃bite and holdのために騎兵を使用した。

1917年、ロイド・ジョージにより騎兵の多くがフランスから中東に移された。1918年3月、ドイツ軍の春季大攻勢で、騎兵は後退援護として活躍した。そして8月以後、快速部隊として活躍した。

アミアンの戦いでは、騎兵は戦線の突破に成功しているが、ローリンソンの蚕食攻撃思想のため、歩兵の来着まで陣地保持を命じられた。

1918年8月のイギリス騎兵軍団は14,000名を下回るほどで、1914年に海を渡った騎兵師団よりも少ない。西部戦線の騎兵は、多すぎたというより少なすぎた。

ヘイグは個々の作戦で余計な口出しをしなかった。もしヘイグがもっと強弁に快速集団の運用を主張していたらどうなったであろうか。大成功したであろうか。それともマーケット・ガーデン作戦のようになったのであろうか。それを知るすべはない。



当時、英砲兵の少尉だったBeadleは60年以上前の出来事を回想している。

1916年7月14日、西部戦線のHigh Woodで彼は乗馬襲撃を目撃した。このとき、ランスを持った騎兵たちはHigh Woodへの斜面をまっすぐに駆け抜けていった。とても信じられない光景だ、少尉は思った。

そして、ドイツ軍の機関銃が火を噴き、砲弾が炸裂するや、騎兵たちはみな倒れてしまった。少尉には時代遅れの暴挙にしか見えなかった。機関銃の前にはどんな希望もない。

しかしながら、当事者の騎兵たちの記録では様相がまったく異なる。

乗馬襲撃を行った第7近衛竜騎兵連隊と第20デカン・ホース連隊の2コ中隊は、High Woodへ突撃をかけたのではなく、南にある開けた土地へ横切っていったのだ。突撃自体、決して自殺的というわけではなく、一時的に重要な土地の一部を占領することに成功していた。

その日の両連隊の損害は戦死14名、負傷者60名、加えて馬の損失112頭である。犠牲者の大半は、突撃のあとに生じたものだった。




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