スポンサー広告 --.--.-- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2015.05.31 (日)
前回のあらすじ



「マーレーに代わって、サー・エドモンド・アレンビー将軍が、1917年6月27日西部戦線からやってきた。 アレンビー司令官の着任は、バーナード・モントゴメリーの第8軍就任が1942年の砂漠戦のターニングポイントとなったように、パレスチナでの戦争のターニングポイントとされる。アレンビーはオスマン軍の防御陣地の外側から回り込み、つづいてエルサレムを占領した。その後の1918年メギッドで、彼は第1次大戦中連合軍の中で唯一、機略的作戦を成功裏に収めた。そのうえ、アレンビーは作戦の責任にくわえて政治、外交上の責任があった。彼は我慢を重ね、成功がめずらしいときにあってよくこれを成し遂げた。複雑な作戦環境下での外交、軍事、統帥の成功という組み合わせは、パレスチナ戦役の大きなヒストリオグラフィの創造のための状況をつくっている。少数の歴史家しか興味を引かないメソポタミア戦役とはちがい、アレンビーとかれの戦役は今日でも新鋭歴史家たちを惹きつけて止まないのである」
Edward J. Erickson, Ottoman Army Effectiveness in World War I. p.97



1917年の英軍攻勢がエルサレム占領によって一段落した。1918年2月、アレンビーはジェリコーに向けて攻撃を再開した。攻撃は2月19日に始まり、土第26、第53歩兵師団を痛打した。2日後、オスマン軍は第7軍が構築していた陣地に後退した。

これと同時期の2月、オスマン軍では指揮官の交代があった。フォン・ファルケンハインが更迭されたのだ。かれのルーマニア戦役での輝かしい勝利は、第3次ガザ戦の敗北によって、いまやヴェルダンでの失態のイメージに変わりつつあった。しかもファルケンハインはオスマン将校を軽視していたので、現場のオスマン人にいい印象がなかった。

これに代わるはガリポリ戦で勇名を馳せたオットー・リーマン・フォン・ザンデルスである。オスマン側からリーマン・パシャと呼ばれていたザンデルスは、電撃軍集団司令官に就任するまで第1軍(トラキア)の指揮をとっていた。これとともにオスマン参謀本部は電撃軍集団の担当地域からメソポタミア、つまり第6軍を外した。これで軍集団はパレスチナ方面に専念できるようになった。

sanders.jpg
オットー・リーマン・フォン・ザンデルス

軍レベルの指揮官も刷新された。第4軍には小ジェマル・パシャ、第7軍にはムスタファ・ケマル・パシャ、第8軍にはジェヴァド・パシャに司令官が替わった。ここでのジェマル・パシャは当時オスマン帝国を牛耳っていた三頭政治の一角であるアフメト・ジェマル・パシャとは違う人物である。やはり注目されてしまうのはムスタファ・ケマル・パシャだろうか。ケマルは危急の戦場によく回されていた。オスマン軍がパレスチナ方面を危険と判断していた証左である(嗚呼、なんと恵まれないメソポタミアのオスマン第6軍!)。

ザンデルスは1918年3月8日シリアに着くやいなや、すぐに電撃軍集団の指揮をとった。前任者のファルケンハインは機動防御を賞用していた。つまり、土地に過度の執着をすることなく強力な反撃によって敵を撃退するという、西部戦線で採用されていた方法を用いていた。しかしザンデルスはガリポリ戦での経験から、いかなる犠牲を払っても土地を防御するという戦術上の防御原則を固持していた。電撃軍集団にもこの方針を下達した。この方針の転換はこの後の作戦において重大な影響を及ぼすことになる。

Australian_Light_Horse_1916.jpg
オーストラリア乗馬兵

ザンデルスが来てほどなくしてイギリス軍が攻勢に出た。いわゆる第1次ヨルダン戦である。イギリス軍はヨルダンの東の川の方向に進撃した。この攻勢に呼応してダルアー・ヘジャーズ鉄道に対する大規模な襲撃をアラブ反乱軍が行った。1918年3月21日オスマン第48師団に対して、イギリス軍2コ歩兵師団および2コ騎兵師団が攻撃した。30日、イギリス軍は土第48師団をアンマンに追いやったが、31日奇妙なことに撤退した。

この先に強力なオスマン軍予備隊と堅固な陣地があったことは確かだが、それですべてを説明しきることはできない。おそらく前と同じようにオスマン軍に攻撃をかけると後退するものと考えたが、あてが外れたのだろう。後退するイギリス軍に対しオスマン軍は当然ながら追撃した。4月11日、オスマン軍は反撃を中止し、塹壕を掘り始めた。1回目のヨルダン戦はオスマン軍の勝利に終わった。

第2次ヨルダン戦は4月30日に始まった。イギリス軍はヨルダンを越えてふたたびアンマンに攻撃をかけた。2週間に及ぶ戦闘の後、オスマン軍は第24歩兵師団と第3騎兵師団(この師団は予備としてよく出てくる)を召致して、前進するイギリス軍の側面を衝いた。この戦いもオスマン軍の勝利となった。

1918年春の作戦において、オスマン軍は反撃のさい突撃隊を投入している。オスマン突撃隊はドイツ軍人の指導によって、現地でドイツ製装備を拝領して4 週間の訓練を施された部隊である。各師団中の一部の健兵を引き抜いて編成されたので、一般歩兵部隊の素質はさらに悪くなった。塹壕急襲部隊である突撃隊であったが、1918年度のオスマン軍は強大なイギリス軍に対し攻勢をおこなう余力はなく、ちょっとした火力部隊として主に反撃で使用された。春の作戦での反撃で突撃隊は擦り減らされてしまったことだろう。

イギリス軍はさらなる攻勢を考えていたが、悲しいかな、西部戦線でルーデンドルフの大攻勢が起こっていた。兵が足りないからちょうだいと参謀本部に言われて遠征軍は泣く泣く手放した。代わりに受け取ったインド兵は質が悪い、これを訓練し終えて次の作戦を開始したときには9月の中旬になっていた。



Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War (Contributions in Military Studies)Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War (Contributions in Military Studies)
(2000/11/30)
Edward J. Erickson

商品詳細を見る


Ottoman Army Effectiveness in World War I: A Comparative Study (Military History and Policy)Ottoman Army Effectiveness in World War I: A Comparative Study (Military History and Policy)
(2014/04/28)
Edward J. Erickson

商品詳細を見る
Secret

TrackBackURL
→http://hikasuke333.blog113.fc2.com/tb.php/338-bbfa3f5a

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。