ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2015.04.19 (日)
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英語ですらないが参考として(ウィキペディア・コモンズ)

オスマン軍の攻勢は5月に入ってもつづいた。第4軍団配下の第5師団はペルシャ北部を50キロ以上前進し、5月2日ホイHoyを占領した。師団はここから南下して5月18日までにディリマンDilman付近まで達した。Mokoを取るべく、第4軍団もまたドゥバヤジットからペルシャへ東進している。シェヴキ・パシャ群は1877年国境線を越えて、チフリスのカフカース都市をめざし鉄道線にそって攻勢作戦をつづけた。

5月のおわりまでに、シェヴキ・パシャ群はグムルGumruとカラキリセを占領している。部隊の先頭はいまやチフリスから約50キロの地点に達し、十分な戦果を得た。これはカスピ海におよぶ凡トルコ帝国の野望をいだくエンヴェル・パシャに活力を与えることとなった。
※トルコ語で「黒い教会」を意味するカラキリセ Karakilise ないし Karakilisa の地名は、アナトリア東部にいくつもある。そのうち、現アールと現ヴァナゾルの地が有名だと思われる。ここで出てくるカラキリセは、現アルメニアのヴァナゾルの地点だろう。@chai_dao氏の気付きに感謝。

アルメニア軍は寄せ集めでオスマン軍よりも兵数も劣っていて、オスマン軍が広正面に展開しているにもかかわらず苦戦した。これに関し、Caucasian Battlefields.は一考加えている。曰く、5月のアルメニア正面でオスマン軍は兵30,000を、アルメニア軍は兵20,000を展開していた。アルメニア兵はよく訓練されているとも言い難かったし戦術的に効果的でなかったが、みずからの住処を守らんとするかたい決意をもっていた。アルメニア義勇兵は不正規戦を習得していたし、アルメニア人にとって勝手知ったる土地で戦っていた。だからパルチザン戦を仕掛ければよかったというのだ。

Caucasian Battlefields.によれば、パルチザン戦は、ゲリラ戦とは異なる。ゲリラ戦は武装した小集団によって実行されるが、パルチザン戦は各部隊が500-1,500で野砲と機関銃で武装して行う。パルチザン作戦はオスマン側に交通線を一時的に渡してしまうかもしれないが、逆にこちらから断続的に襲撃をかけて弱らせることができる。幸いアルメニアにはアンドラニク、アマザスプAmazasp、ドロDroといった優秀なパルチザン指揮官がいた。バクーをねらうオスマン軍に対し有効な打撃を与えられたはずだったのだ。しかしながら、アルメニア政府は外交での解決を望んでいたし、軍は伝統的な正規戦で決着をつけることに固執していた(なお、トルコ側資料のOrdered to die.は書いていないが、5月下旬エレヴァンに迫ったオスマン軍部隊はアルメニア軍の果敢な反撃によって撃退されている)。

政治情勢は混迷をふかめた。オスマン帝国、ロシアと南カフカース連邦の大使が2月23日以来トラブゾンで合意にこぎつけようと励んでいた。ロシアはオスマン帝国が東方遠征をやめるのを希望していたし、カフカース三国はできたばかりの国家に対して正当性を得んと要求していた。この交渉の途中で、突如としてチフリスのグルジア国家主義者が、南カフカース民主共和国の完全独立を宣言した。すぐそのあとで新国家の国会はオスマン帝国との戦争継続を宣言し、トラブゾンでの交渉は崩壊した。

5月11日に和平交渉は再開。これに対しヴェヒプ・パシャは最後通牒を送った。かれの要求するところによれば、アハルツィヘおよびアレクサンドロポリ周辺のグルジア領域の占領、アレクサンドロポリ・ナヒチェヴァン鉄道の統制をオスマン側にゆずること、イギリスとの戦争がつづくかぎりトランスカフカース鉄道全部の自由使用である。各国が激論を交わすなかでオスマン第3軍は容赦のない前進をつづけた。5月15日、ヴェヒプはさらなる要求――バクーのカスピ海港につづく鉄道使用――を出した。

ドイツ側にとって、オスマン帝国の傍若無人なふるまいは衝撃的であった。ドイツはオスマン軍がカフカース奥深く前進するのをこころよく思っていなかったし、オスマン帝国がカフカースを占領してしまえばブレスト・リトフスク条約の重大な違反となりかねなかった。ベルリンはエンヴェルに翻意をうながし、さらにグルジアと一計を案じた。5月27日、民主共和国のグルジア人メンバーは分離グルジア国家の創立を宣言した。同時に、ドイツはあらたな独立国家グルジアに対しこれを守護すると宣言した。いたるところでグルジアとドイツの国旗が一緒に立った。これにオスマン側は大激怒である。6月5日、エンヴェルとゼークトはドイツ側と調整するためバトゥミへ行ったが、オスマン軍とドイツ・グルジア合同部隊が衝突してオスマン側が大量の捕虜をとるという事件が起きた。この事件でドイツは、オスマン帝国から兵と支援を撤収させると公式に脅してきた。捕虜はすぐに返されたが、ドイツ・オスマン間の対立感情はこれまでになく高まった。

ドイツからの大量の物資援助がなくなってしまい、砲兵や鉄道兵など専門技能者がいなくなればオスマン帝国の戦争遂行に重大な支障をきたしてしまう。事実、のちのトルコ独立戦争で百戦錬磨のアナトリアトルコ人――1911年伊土戦争、1912-3年バルカン戦争、1914-8年第一次世界大戦と戦い詰めである!――がギリシャ相手に苦戦したのもこのためであろう。エンヴェルは熱を冷ますためにグルジア進攻を終結させた。しかし凡トルコ帝国の夢はあきらめなかった。

6月7日、エンヴェルはカフカース部隊の改編を決定した。第3軍の部隊から第9軍を新編した。あたらしい司令部はシェヴキ・パシャ群の参謀が異動して、元の第2カフカース軍団は解散した。さらに2コ軍の活動を協同させるために東方軍集団が新設され、司令官にはヴェヒプ・パシャが就いた。

東方軍集団 ヴェヒプ・パシャ
 第3軍 エサト・パシャ
  第5軍団
   第3カフカース師団
   第36カフカース師団
  第5カフカース師団
  第37カフカース師団
 第9軍 ヤークプ・シェヴキ
  第1カフカース軍団
   第9カフカース師団
   第10カフカース師団
   第15師団
  第4軍団
   第11カフカース師団
   第5師団
   第12師団
  独立騎兵旅団

この命令は6月8日に下達され、9日よりエンヴェルの計画は効力を発した。エンヴェルのあらたな戦略方針は東方遠征である。グルジアへの北進をやめ、アゼルバイジャンとペルシャにむかい東進南進する。第9軍はペルシャを攻撃しタブリーズ占領を目指す。第3軍はカスピ海へむかう東方進撃をつづける。第3軍参謀は新指揮機構と新任務を支援するために、戦域への兵と装備の移動を急いだ。

オスマン・ドイツ間の悪感情を一掃せんとエンヴェルはヴェヒプの更迭を決めた。6月29日、エンヴェルはヴェヒプに対しイスタンブルへの帰還命令を出し、あらたな東方軍集団司令官には第6軍司令官のハリル・パシャを任命した。これでドイツとオスマンとの間にくすぶる反感がやむことをエンヴェルは望んだ。

1918年6月中旬までにオスマン第3軍は攻勢を再開した。アクスタファ・バクー道と、カスピ海沿岸で鉄道路にいたるAlyatを土第5師団が猛進した。アルメニア人とアゼリー人は前進するオスマン軍縦隊に反撃し、クルダミルKurdamir付近において防御線を構築せんとこころみた。しかし土第5師団はこれらを蹴散らしバクーに迫った。オスマン軍は50キロ内外を前進し、6月27日までにバクーの街を見渡せる高地に前進していた。

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バクーを守るアルメニア兵(ウィキペディア・コモンズ)

第5師団が前進する間、第3軍ののこりはこれに追いつこうと努めた。第3軍の後方第5軍団は解散し、第3軍直轄となった。

ここでまたエンヴェルに""""創意豊かな思いつき""""が浮かんできた。イスラーム軍構想である。この"イスラームの軍隊"は、オスマン軍の師団を中核としてカフカースのイスラム教徒支援者を動員し、ペルシャを一掃してシャトゥル・アラブを奪還するというのである。1918年7月10日、エンヴェルはイスラーム軍を活性化させた。あらたな軍の中核は第5カフカース師団と第15師団のみで、これに1コ独立旅団と1コ独立連隊が加わった。イスラーム軍構想のとおりムスリム不正規兵数千も展開したが、有効な戦力だったのか疑わしい。イスラーム軍の司令官には、ファフリ・フェリク・ヌリ・パシャ Fahri Ferik Nuri (准将)が就任した。第9軍とイスラーム軍の戦力を維持するために第3軍が減らされ、バトゥミの沿岸やグルジア国境の守備員が送られた。第9軍はカルスを維持しつつ、いまバクーからタブリーズまでとサライも担当地区となった。



Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War (Contributions in Military Studies)Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War (Contributions in Military Studies)
(2000/11/30)
Edward J. Erickson

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Caucasian Battlefields: A History of the Wars on the Turco-Caucasian Border 1828–1921 (Cambridge Library Collection - Naval and Military History)Caucasian Battlefields: A History of the Wars on the Turco-Caucasian Border 1828–1921 (Cambridge Library Collection - Naval and Military History)
(2011/02/17)
William Edward David Allen、Paul Muratoff 他

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