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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2015.02.07 (土)
前回のあらすじ

カフカス打通作戦です(^o^)



1917年3月以来、カフカース戦役は休戦状態となっていた。ロシア軍の参謀はオスマン軍の前進に対し効果的な抵抗を組織することが困難になりつつあった。対ドイツ戦とくらべて、対トルコ戦はもっと人気がなく、4月以来革命勢力は"帝国主義者の戦争"に反対するデモをおこしはじめ、「われわれはダーダネルスなんかいらない」と宣言している。ロシア革命は兵の士気を害し、さらに10月ボルシェビキのクーデターのあと、カフカース戦役のロシア軍は組織的な抵抗をするのが不可能となった。1917年末でもアナトリア占領地に4コ軍団がいたがもはや戦う雰囲気ではなかった。オスマン軍がこれを傍観するなかで、のこされたカフカースの民はアルメニア、アゼルバイジャン、グルジアからなる南カフカース連邦を組織した。

ドイツとロシアが休戦交渉を開始。のちにブレスト・リトフスク条約として締結されるが、カフカース連邦は列強から独立を保証されていなかったし、オスマン帝国はこの条約にしばられるつもりなどなかった。カフカースにはもう、オスマン軍の宿敵ロシア軍はいない。いまこそ、1914-16年にうばわれた土地をとりもどし、1877年露土戦争でうばわれた土地をもとりかえすチャンスなのだ。

アナトリア中央部に対するロシア軍の脅威が消えるや、オスマン軍も緊張度をさげた。1917年12月16日、カフカース軍集団は解散。1918年1月4日、第2軍が不活性化された。第2軍のうち、第4軍団は第3軍に編入されて第2軍が担当していた正面をひきうけた。

第3軍司令官のヴェヒプ・パシャは1年間注意ぶかく戦力温存につとめていた。他正面のほうが優先度が高かったので大規模な増援や補充員をうけとっていなかったし、逆に参謀本部から引きぬきを要求されたりさえした。かれはこれをはねのけて、電撃軍集団に第2カフカース騎兵師団が送られるだけで済ませることに成功している。

1918年1月時点で、第3軍の第1カフカース軍団と第2カフカース軍団は、あわせて兵20,026、機関銃186、火砲151を数えた。西部戦線のイギリス軍でいえば、1コ師団相当の戦力しかない。第3軍は攻勢作戦をおこなえると考えられていなかった。

しかし、ここで”また”エンヴェル・パシャが登場する。創意豊かで精力的なかれは、カフカース戦域を注意ぶかく見守っていた。1917年12月の第3軍からの報告で、ヒュサメッティンHüsamettin大尉は、ロシア軍はもはや前線を維持する能力はないと述べている。また第3軍は、チフリス地区にイギリスとフランスが関与していること、大規模なアルメニアとギリシャの部隊の存在を述べている。さらに、アルメニア人によってアゼルバイジャン人ムスリムが虐殺されていることも言及している。さいごに、アルメニアのダシュナク党が東部の県であたらしく共和国を樹立せんと画策しているとの情報で、報告を締めくくっている。

第3軍からの報告を受けとったあとで、エンヴェルは東方遠征を検討するためアゼリー人(アゼルバイジャン人)ムスリムの難民指導者をいそぎイスタンブールに招いた。ここから、エンヴェルと参謀本部は、カフカースでの攻勢作戦の可能性を考えはじめる。やがて新年をむかえ、エンヴェルはこれまでの作戦でうしなわれた領土をとりもどすだけでなく、1877年の失地を回復せんとの思いにとりつかれだし、ヴェヒプの第3軍に増援を送ることに決めた。

1918年1月23日、エンヴェルは第3軍に対し攻勢作戦を準備するよう公式に命令。増援として、ルーマニア帰りの第15師団、120両の自動貨車、3コ軍警察(ジャンダルマ)大隊、そして3,000名よりなる第123歩兵連隊が当てられた。かれらは、2月12日、はやくも黒海のギレスンの小さな港に到着しはじめた。もはやロシア海軍の脅威もないに等しいのだ!

オスマン参謀本部のほうは、シェレンドルフに替わってハンス・フォン・ゼークト少将が1月3日付で参謀総長第一補佐に就任した。
※何度か書いた気がするが、大戦中のほとんどの期間、エンヴェル・パシャが陸軍大臣、参謀総長、野戦軍総司令官(最高司令官はスルタン)を兼務していた。ドイツ人が軍のトップにいたことはない。

第1および第2カフカース軍団は、それぞれロシアとアルメニアの領土ふかくを目標として割り当てられた。第37師団をともない第2カフカース軍団は北方黒海沿岸を進撃し、トラブゾンを奪還する。第1カフカース軍団は、エルズィンジャンを確保したのちエルズルムにむかって進撃する。第4軍団はマラズギルトの確保。

これに対する南カフカース連邦の足並みはそろっていなかった。アゼルバイジャンのタタール人はオスマン帝国との友好に将来の希望を見出そうとしていたのに対し、グルジアはためらい、アルメニアは失望した。

グルジア軍は兵10,000ほど有していたが、その士気には疑いが持たれていた。グルジアはドイツに後ろ盾となってもらい、オスマン帝国からの安全を保障してもらおうと画策していた。

アルメニアはロシア的気質を一番のこし、カフカース戦域のロシア軍司令部の援助によって国軍を発展させようとしていた。そして、イギリスの支援にさいごの望みを託していた。1918年1月1日時点で、アルメニア軍団は、アルメニア銃兵よりなる2コ狙撃師団、義勇兵よりなる3コ旅団、1コ騎兵旅団、数コ民兵大隊よりなっていた。狙撃師団は元アルメニア狙撃兵大隊を基幹とし、かれらはカフカース戦役の古強者たちからなっていた。義勇兵はオスマン帝国領のアルメニア人(エルズィンジャン、エルズルム、ワン、エレシュキルト谷Eleşkirt Valleyの出身)で国軍に参加した者たちである。装備は自己崩壊したロシア軍から拝借した。歩兵は機関銃を装備していたし、火砲も十分あったが、よく訓練された砲手が不足していた。
※軍の区別がつきにくいのでロシア軍の狙撃兵呼称をアルメニア軍にも当てはめた。したがって狙撃兵といっても、スナイパー(sniper)ではなく一般歩兵(rifle)である。

24コ狙撃兵大隊、8コ義勇兵大隊よりなるアルメニア国軍は、歩兵16,000、騎兵1,000、民兵4,000ほどを有した。グルジア兵10,000とあわせても、オスマン軍の攻勢をとめれそうにない。しかも怒れる敵対的なムスリム集団がアルメニア軍の交通線を荒らしまわっていた。アルメニアに対するムスリムの感情は、オスマン軍が前進をはじめる前からあきらかであった。

デルスィムのクルド人は1916年秋にオスマン帝国を裏切りロシア側についたが、ロシア軍が撤退し弱そうなアルメニア人部隊(かれらはかれらの同胞を守ることに関心をもっていた)に委譲されるのを見て落ち着いていられなくなった。すぐにアルメニア人とクルド人の小競り合いがはじまり、毎日のように死傷者が出ている。この間、かまわず復員するロシア兵のふるまいは称賛に値するにほど遠く、オスマン側に介入する口実を与えたのであった。
※デルスィムはアナトリア東部、現在のトルコ共和国トゥンジェリ県。



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