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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.12.11 (木)
1917年10月31日、アレンビーの英エジプト遠征軍は攻勢を開始。英第20軍団はベエルシェバ正面を攻撃し、砂漠乗馬軍団は東より側面攻撃をかけた。対するは、イスメト・ベイ(のちイノニュ)ひきいるオスマン第3軍団である。ベエルシェバ自体には銃兵4,400、機関銃60、火砲26しかなく、イギリス軍基準でいえばちょうど旅団レベルであった。

2コ軍団によるベエルシェバ攻撃は、オスマン軍をかんぜんに奇襲していた。オスマン軍は午後までねばったものの、最終的にオーストラリア乗馬兵(Australian Light Horse)による乗馬襲撃によってベエルシェバはイギリス軍の手におちた。重要な目標である井戸も17あるうち15を破壊されるまえに確保できた。乗馬襲撃(Cavalry Charge)の成功は、イギリス騎兵に自信をつけさせ、その後もたたかいでもかれらは乗馬襲撃をおこなっている。イギリス騎兵さいごの至福のときであった。

電撃軍集団司令官とその参謀は、ベエルシェバが1日で陥落したことに驚愕したが、すぐにベエルシェバ北方に防御線を再構築するため第19師団を投入した。第19師団はゲリボル戦役アルブルヌのたたかいで栄光の名をかざり、ダーダネルス戦役が終了したあと東部戦線のガリツィアに派遣されてロシア軍と死闘をまじえた精鋭師団である。

ガザ方面。10月31日、イギリス軍はガザに対し毒ガス弾をふらせたが、あまり効果がなかった。海からのそよ風が毒ガス使用を困難にさせていた。11月1日、英第21軍団はガザに攻撃をかけた。英3コ師団に対し、ガザのオスマン軍は銃兵8,000たらず。これを火砲116が支援していた。イギリス軍は、砲兵による西部戦線方式の攻撃準備射撃と海岸からの海軍砲撃で敵の陣地をたたきはじめた。11月1日から2日にかけてオスマン第7、53師団はよく陣地をまもり、それどころか逆襲によってイギリス軍を海岸沿いにすこししか前進させなかった。

11月6日、アレンビーは騎兵部隊を中央部にうつしガザ包囲を命じた。ファルケンハインは状況の不利をすぐにさとった。このまま戦術的状況に固執すれば戦線が崩壊するのである。かれは第8軍と第7軍に後退戦闘を命じ、あたらしい防御線を後方約10キロに設定。フォン・クレスとムスタファ・ケマルは、少数の後衛を残置しつつ部隊を後退させはじめた。後衛部隊を犠牲に、闇にまぎれてオスマン兵は後退していったが、捕虜となった者もおおい。オスマン第3騎兵師団は第7軍左翼に騎兵幕を展開した。イギリス軍の主努力はいまやあきらかに中央と海岸に指向しており、土第8軍は大規模な追撃にさらされた。11月9日までに第8軍は約20キロ後退。第7軍はほとんど土地をうしなうことなく周到に後退していった。電撃軍集団は司令部をエルサレムにうつし、第7軍は司令部をベツレヘムに後退させた。

11月11日、アレンビーはクレスの第8軍に対し圧力を強めた。13日Mughar Ridge、17-24日NebiSamwilと両軍は激闘をまじえ、25日クレスは2コ師団による反撃に出て海岸部の英軍を多少押しもどした。翌週よりイギリス軍は主努力をエルサレム奪取にシフト。フェヴズィ・パシャ(ケマルより指揮を交代)の第7軍は、エルサレム付近を守備したものの守りきることができなかった。12月8日、アレンビー将軍がついにエルサレムに入城。オスマン軍はエルサレム付近で防戦をつづけ、27日反撃に出てエルサレム奪還には失敗したもののイギリス軍に死傷者1300の損害をあたえた。

1917年がおわりに近づくやイギリス軍の兵站支援は限界に近づき、アレンビーは攻勢をいったんとめた。そのおかげで消耗のはげしいオスマン軍もしばしの休息を得た。1917年10月31日から12月31日の間、電撃軍集団は戦死、負傷、捕虜、行方不明合わせて25337名を失った。一方、11月の第3週から12月15日までの英エジプト遠征軍の損害は18928名である。多少時期がずれていることに注意。

2倍ないし3倍の歩兵、8倍の騎兵戦力差、優勢な英軍砲兵とイギリス海軍艦船の容赦のない猛砲撃、そしてイギリス軍の主攻を読み誤るという致命的な失敗にもかかわらず、オスマン軍は善戦した。ガザ正面においては側背に脅威を感じるまでイギリス軍を寄せ付けず、後退戦においてもあるいは防御、あるいは反撃し、機動的な防御を完遂した。結果的にガザ、エルサレムと重要な都市を失ったにもかかわらず、電撃軍集団の破滅は避けることができた。これは偉業とも言えるかもしれない。

イギリスにとって、この攻勢は軍事的というより政治的勝利であった。ロシアでは革命がおこり、フランスでは兵が反乱をおこしていた。そして、イギリスはイーペルとパッシェンディーレで突破できずにまたもや惨烈な死傷者を出して国民が疲弊していた。こんなときにロイド・ジョージ首相はエルサレムを「イギリス国民へのクリスマスプレゼント」として送ることができ、格好の宣伝となった。イギリス中の教会がベルを鳴らして祝福し、パンチ誌の風刺漫画では「さいごの十字軍」と題されて、リチャード1世が街を見下ろし「わたしの夢がかなった」と言っているのが描かれたのであった。



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