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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.11.08 (土)
前回のあらすじ



アレッポでの会議がおわったのちも、ジェマル・パシャは大宰相に直接連絡をとり問いただした。大宰相は、すでに大臣会議で決まったことだと言い、個人的にドイツからファルケンハインの派遣を要請したとも語った。軍集団構想に憤怒をつのらせるジェマルは、1917年8月中旬、この構想の反対を主張すべくイスタンブルまで出張した。エーリヒ・フォン・ファルケンハインも同様に攻勢戦略の成否に疑いをもっており、ドイツ参謀本部へ覚書ををしたためた。

かくして戦争会議の機会がもういちど設けられることになり、ジェマル、エンヴェル、ファルケンハイン、シェレンドルフ、アリ・フアド・ベイAli Fuad Bey大佐(ジェマルの軍の参謀長)が出席した。この会のなかで、ジェマルと参謀長はガザ・ベエルシェバ線を保持している第4軍の窮状を説明し、戦域予備の保有が防勢を成功させるのに必要不可欠であると結論づけた。するとエンヴェルとファルケンハインは流暢なドイツ語で会話しはじめ、地図上で身ぶり手ぶりを交えながら話しはじめた。

ジェマルにとっておどろいたことに、ファルケンハインは第4軍の脆弱性について同意しているとエンヴェルが説明した。そのうえでファルケンハインは、バグダードに攻勢をかけるまえにスエズ方面のイギリス軍を打撃したいと主張しはじめたのである。ジェマルは失望の色を隠せなかった。かれにとって防勢をとることこそが良案であると思ってやまなかったからである。そのうえ、電撃軍集団と第7軍の参謀が配置されてしまうと、パレスチナに対するかれ自身の影響力を低下させてしまうのも不満であった。

戦争指導にかかわるこの議論はまだつづいていたが、ウィルヘルム皇帝からドイツへ招待されるやジェマルはこころよくこれに応じた。かれはドイツへと旅立ち、キールの艦隊、クルップの工場、バートクロイツナハの司令部を訪れた。いたるところで、かれは歓迎を受けた。しかし、バートクロイツナハに着いたとき、エンヴェルから電報が届くことによって事態は急転する。この電報には、ジェマルからパレスチナにおける指揮権を取りあげ、かわりにファルケンハインに委譲する旨が書かれてあった。破滅を感じたジェマルは急いでイスタンブルにもどったが、もはやあとの祭りであった。ジェマルの第4軍の担当は、シリアと西アラビアとなり、かれはダマスカスに司令部をうつした。

1917年7月のおわり、フォン・ファルケンハインは電撃軍集団の指揮をとるため到着した。最初期の構成として、軍集団の参謀は65名のドイツ人、9名のトルコ人参謀将校よりなっていた。通訳者に頼ることがすくないのでファルケンハインにとってはドイツ人が多いのはよいことだった。オスマン軍将校がドイツ基準の参謀業務を実行できるのかどうか、かれが信頼していたか疑わしい。もちろんオスマン将校は十分にその能力を有していたのであるが、ともかく、オスマン将校は重要な参謀業務を割り当てられず、意思決定サイクルからはずされてしまった。

電撃軍集団をたすけるためドイツアジア軍団が派遣されてきたが、オスマン側が期待したような軽師団ではなく、現実にはたった1コ旅団規模の部隊だった。かれらは3コ歩兵大隊、3コ機関銃隊、3コ騎兵隊より成っていた。しかしアジア軍団の真価は戦闘部隊ではない。軍団は1コ砲兵大隊や砲兵観測用の航空隊1コなども保有していて、とくに飛行機は価値の高いものであった。

オスマン軍はアレッポに部隊を集中しはじめ、9月ごろには集結しつつあった。7月、軍集団に所属することになっている第15軍団司令部がガリツィアから到着。ハンガリーよりイスタンブルまで兵員が鉄道輸送されて、さらにそこから主に鉄道によってほとんど100日かけてアレッポまで移動した。8月のおわりまでに第15軍団所属の第19師団が到着し、さらにその姉妹兵団の第20師団は9月到着した。また、あたらしく第3軍団が結成され、マケドニアより第50師団、アイドゥンより第59師団が所属することになった。

戦術次元では、パレスチナにいる兵団の歩兵大隊が有する4コ歩兵中隊のうち、1コ中隊が廃止され、かわりに機関銃中隊(軽機関銃装備)が編成された。9月1日、エンヴェルはオスマン軍内での突撃部隊創立を命令し、第15軍団、第1軍、第4軍に突撃大隊を編成させている。くわえて、電撃軍集団と第4軍の隷下師団に突撃隊の編成を命じた。ドイツのStosstrupenに範をとった突撃隊(Hücüm Müfrezesi)は、優良な将校・下士官兵によって構成されるエリート部隊である。第2次大戦でもアメリカ軍はレンジャー大隊など選抜部隊を編成しているが、一般歩兵部隊の素質がわるくなったため廃止された。オスマン軍の突撃隊でもこの種の問題をかかえることになる。

足元に火が点いているのにもかかわらずドイツの要請にこたえて実行されたオスマン軍のヨーロッパ遠征であるが、ドイツ軍最新の戦術が流入する効果もあった。引きあげてきた兵団は、派遣されてきた西部戦線帰りのドイツ軍人とともに、パレスチナのほかの部隊に突撃隊戦術を教えてまわった。

しかし、看破できぬ報告もあがってきている。9月の電撃軍集団司令部への報告によると、フォン・クレスはゲリボル出発の第24師団がイスタンブルのハイダルパシャ駅を出発するとき10,000名いたのに、到着するやなんと4,634名に激減していると記している。この師団のうち、19%が病気、24%が行方不明、3%が許可を得て帰郷で、近代軍隊とはなにかと考えさせられる数字である。

電撃軍集団のさいごの有力な部隊としてドイツアジア軍団がシリアに到着。貧弱な鉄道網を考えればまずまずの成果だろう。オスマン参謀本部はここから鉄道線の尽きるまで東へと輸送させ、そこからアジア軍団の400両のトラックでモースル南の集合地域まで160キロ輸送させるつもりでいた。野心的な取り組みである。

9月中旬、バグダード奪還計画はひとまず中止となり、エンヴェルはファルケンハインの助言にもとづきまずパレスチナに電撃軍集団を投入することに決めた。26日、パレスチナに関するジェマルの影響力をそぎたいエンヴェルは、第4軍の司令部をダマスカスにうつし担当地域もパレスチナをはずした。また、電撃軍集団と第7軍がパレスチナへ行くことも命令した。ジェマルの第4軍のうち、もとからパレスチナにいた部隊はフォン・クレスを司令官として第8軍として独立することとなる。電撃軍集団司令官フォン・ファルケンハインは、第7軍、第8軍にくわえて、メソポタミアの第6軍もその配下にくわえた。

切り札となる第7軍司令官となったのはムスタファ・ケマルであるが、かれも一連の流れをこころよく思っていなかった。9月のおわりに、鬼気迫る長文の手紙をエンヴェルに送っている。ケマルは戦略的防勢に回帰すべきだと書き、予備部隊を注意深く使うべきだと主張した。この前提には、イギリス軍の戦力がいちじるしく増しており、どこへ電撃軍集団を投入しようとも主導権を取りかえすことは不可能だという認識があった。また、ケマルは第7軍と第8軍を合流させ、クレスは解任すべきとも主張している。さらに、軍のために国民と経済がひっ迫しているので国内の統制を強めるべきとも迫っている。

感情的な手紙のなかで、ケマルはオスマン帝国の戦略に関与しようとするドイツを手ひどく非難し、このままでは帝国がドイツの植民地になってしまうのではないかと懸念をあらわしている。この手紙のおかげで数週間後にケマルは解任され、後任にフェヴズィ・パシャが第7軍の指揮をとることとなる。

アレッポ付近の司令部と諸師団は、9月30日南へ移動しはじめた。そのすべてがパレスチナに行ったのではない。ハリル・パシャに増援を送るため第50師団はメソポタミアへと移動し、第59師団はほかの師団の充足率を高めるため解散した。この埋め合わせのために、第5軍から第42師団がシリアへ、第2軍の第1師団がダマスカス、第3軍から第2カフカース騎兵師団が送られた。しかし、かれらが到着するまえに戦いがはじまってしまう。

時まさに1917年10月31日、アレンビー将軍ひきいる英エジプト遠征軍がさきに攻勢をしかけようとしていた。



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