ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.10.20 (月)
前回のあらすじ



クッテルアマラ(※)包囲戦のあと、失敗にこりたメソポタミアのイギリス軍はみずからの組織の改編をおこなった。さいしょに、戦域の司令官がサー・スタンレー・モード将軍にかわった。2番目に、2コ師団が増援として送られて戦力が増した。モード将軍の戦力は5コ歩兵師団をかぞえ、戦力166,000となった。うち、107,000がインド軍の兵である。強力な河川砲艦隊も組織された。
※Kut el Amara あるいは Kut 。クッテルアマラ、クート・エル・アマラ、クートと訳される。また、メソポタミア戦役と称してこの戦役を書いているが、Erickson はトルコ側記録にもとづく記述のときメソポタミアではなくイラクと書いている。"メソポタミア"表記は英語圏の慣習なのでこれにとらわれずイラクとかくべきか?

モード将軍は残暑のころよりバグダード占領を目的として準備した。しかし、この強大な戦力にもかかわらず、攻勢にうつらなかった。かれは自分の納得するまで準備に費やした。

いっぽうのオスマン側、第6軍はその敵とくらべて兵力がおおきく劣っていた。他の危急の戦場に戦力が優先的にまわされ、また貧弱な鉄道網がこれを増長した。第6軍司令官ハリル・パシャは参謀本部からすこししか増援をもらわず、それどころか病気に兵の脱走に英軍の小規模戦闘と、継続的に戦力をすり減らしていた。1916年秋の時点で、第6軍はいまだ2コ軍団よりなり、第18軍団は第46師団と第51師団、第13軍団は第35師団と第52師団を有していた。夏季に、損耗のはげしい第38師団は解散してその人員は第6軍内のほかの師団にくわえられている。

メソポタミアにあるチグリス川とユーフラテス川と二つの進出経路があるのも問題だった。モードは任意に二つのルートをえらべるのである。第1のルートはチグリス川沿いをすすみ、クッテル・アマラ、バグダード、モースルへといたる道である。第2のルートはユーフラテス川沿いをすすみ、バビロンの廃墟を経由して、バグダード西30キロの地点へいたる。イギリス軍はこの二つどちらにも陣地を占領していたために、ハリルはたがいに100キロはなれている地点へ防御陣地を構築せざるを得なかった。

1916年12月、ついにモードは川を上りはじめた。えらんだのはチグリス川である。川の両側にそれぞれ完全充足した1コ軍団をならべて前進した。雨が英軍の歩みをおくらせたが、1917年2月17日には、クートより20キロのSannaiyatまですすんだ。

ハリルはすくない兵をやりくりして、第18軍団にチグリスを守備させた。このとき第18軍団はキャーズム・ベイ大佐(カラベキル)が指揮し、第45、51、52師団を指揮下においていた。さらにキャーズム・ベイは沿岸軍団もあせわて指揮し、この軍団には4コ歩兵連隊、1コ騎兵連隊、1コ砲兵連隊と支援部隊がいた。沿岸軍団は事実上、1コ師団と同等の戦力を有していた。ハリルは戦力の75%以上を相対するイギリス軍にあてたのである。

キャーズム・ベイは主力をもってチグリス北岸に陣地を占領し、クートへの道を阻止しようとした。しかしモードは主力を南岸にうつしてオスマン軍右翼に戦力集中した。2月17日にイギリス軍は攻撃をはじめ、22日朝にはSannaiyatとクートで陽動を行いはじめた。翌日、クートよりチグリス北岸へ師団規模の強襲渡河をおこなって、その日のおわりまでに橋を架けた。

オスマン軍は橋頭堡へ攻撃をかけたが失敗。ハリルの戦力と予備の大部分はクート南にいたため、夜半までに第18軍団が北からの包囲の危機に瀕していることをハリルはさとった。かれはすばやく反応して撤退を命令。第18軍団は夜中に防御陣地から後退をはじめた。しんがり部隊の死にもの狂いの行動により、歩兵の大部分は脱出する時間を得たが、火砲や物資の多くがうしなわれることになった。

ハリルはバグダードを守るさいごの防御線をDiyala川に構築した。Diyala川は、バグダード下方約15キロ、チグリス川支流である。損耗のはげしいオスマン第45師団は解散。あらたに到着した第3、第64歩兵連隊と第45師団の生きのこりより第14師団が結成された。

3月4日、イギリス軍はDiyalaのオスマン軍に圧力をかけはじめ、ハリルは窮した。バクダードは政治的にも、文化的にも、宗教的にも重要な場所である。しかしDiyalaもバグダードも、もはや確保することはむずかしかった。断腸の思いでハリルは退却を決断、上流へにげていった。

3月11日、英モード将軍はバグダードへ入城。ハリルのほうは司令部をモースルにうつした。土第6軍は総計30,000を下回るほど戦力低下していた。対して戦線は300キロの広きにわたり、第2師団が到着したものの、戦力不足はあきらかであった。

ここで第1次大戦における偉大なる"たなぼた"の一つがおこる。イギリス軍がバグダードで前進をやめたのである。モードは、兵站線が不十分であるのと夏の猛暑によって、攻勢の見通しがわるくなると感じていた。ロシア軍がモースルへ助攻をかけるのと調子を合わせるべきとの理由もあった。そして、オスマン軍がバグダード奪還のため大規模な攻勢を準備中との情報もモードを鈍らせた。ともかくも、イギリス軍はバグダード占領で満足して、ながい夏の猛暑のなかそこへ居座りつづけた。土第6軍にイギリス軍をとめることができたかは疑わしい。1917年3月下旬以降、メソポタミアは静かになった。

英軍によるバグダード占領は、オスマン参謀本部の戦略方針に対し重大な影響を及ぼすこととなる。
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