ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.09.21 (日)
1917年6月27日、あらたな英エジプト遠征軍司令官として、サー・エドモンド・アレンビー将軍がエジプトに到着した。アレンビー将軍は、サンドハースト王立陸軍士官学校を卒業してのち、1882年エニスキレン竜騎兵に任ぜられて、アフリカで軍歴をかさねた。1884-5年ベチュアナランド遠征と1888年ズールーランド遠征に参加し、1899-1902年の南アフリカ戦争では大尉となり第3騎兵旅団の副官として従軍した。1910年に少将となり、1910-14年間騎兵監察官をつとめた。

normal_0259.jpg
サー・エドモンド・アレンビー

第1次大戦が勃発するや騎兵師団をひきいて海をわたり、モンス戦と第1次イーペル戦をたたかった。1915年第2次イーペル戦では第5軍団長をつとめ、さらに1917年アラスの戦いで第3軍を指揮した。大戦では戦果にめぐまれていないが、西部戦線の試練に耐えた、イギリス軍第一級の将帥である。

アレンビーは到着するや司令部をエジプトのカイロから前線(RafaちかくのUm el Kalab)までうつした。マーレーと好対照をなす行為である。かれはすぐに、過去イギリス軍でもっとも適した伝統の一つであり、成功にいたるカギの一つである、指揮官と兵とのふるき個人的な結びつきを回復した。前線の軍内をひんぱんに視察し、そうすることで近代戦のなかで兵にとって身近な存在となる稀有な司令官になることができた。

強靭な精神をそなえた司令官であるが、このころのエピソードでイギリスではそれなりに知られているであろうものがある。

「のちに元帥となるアレンビー卿は職業軍人で、死と無縁ではなかった。彼の一人息子マイケルは、1917年にフランスで戦死した。そのことについて、アレンビーはこう書いている。『彼は、誰もがわが子にはかくあってほしいと望むような息子だった。その父親であったことを誇らしく思う。彼の生涯は、ただ一日の例外もなく、私が望んだ通りのものであった。生まれてから死没するまで、率直、穏和、陽気な性格のまま、名誉とともに歩んできた。マイケルの思い出の一つ一つを、私は噛みしめている』。この手紙は、書き手の苦悩を如実に証明していた。アレンビーの『明瞭で几帳面な筆跡に涙の染みがあった』からである。」
ジョン・キーガンその他『戦いの世界史』pp.357-8


さて、アレンビーが到着したときには10コ師団がいたが、戦場を観察するうち彼はさらに3コ師団を要求した。計13コ師団のうち、3コ師団が第一級で戦闘経験豊富な師団である。第52ローランド師団はヘレス岬でたたかい、第53ウェールズ師団はスヴラ湾で、第54東アングリア師団もスヴラにいた。上級将校も師団・旅団レベルの指揮の仕方をよく理解していたし、全大隊に現役の将校・下士官がちらばって配属されていた。

第60(2nd/2ndロンドン)師団は第二線級の郷土防衛師団で、西部戦線とサロニカでの戦闘経験を有していた。さらに地中海戦域で編成された2コ郷土防衛師団もくわわった。第74義勇師団(yeomanry)はガリポリでの戦闘経験のある戦力低下した18コ義勇兵連隊より編成され、エジプト守備隊の諸大隊より第75師団が編成された。さいごに、第10アイリッシュ師団はスヴラとサロニカにいた兵団である。そうじて、アレンビーの歩兵は訓練を積んだ部隊として判断されるかもしれない。

おなじように、騎兵部隊も経験豊富な部隊である。3コ旅団よりなるオーストラリアおよびニュージーランド乗馬師団(アンザック師団と略す)はガリポリで戦い、それぞれ2コ旅団よりなるオーストラリア乗馬師団と義勇乗馬師団(yeomanry)もガリポリ兵団である。これら、完全充足の3コ師団はつぎのガザ戦で重要な役割を担うことになる。かれらの砲兵は、より機動に適する13ポンド砲に装備変換された。

アレンビーはさらに戦闘師団の補充員数千をうけとり、火砲も116門追加して拝領した。師団砲兵と重砲兵とそれぞれ増え、マーレーのときとは比べものにならないくらい火力が増した。

組織的には、アレンビーのフランスでの経験が反映された。ちなわち、遠征軍は2コ歩兵軍団(第22および第21)と1コ騎兵軍団(砂漠乗馬軍団)に改編されたである。その戦術もフランスの最新のものが導入された。1917年の中ごろまでに、多くをドイツ軍の手法をまねて改良された諸兵科連合の歩兵戦術が採用されて、イギリス軍の戦闘効率は飛躍的に増していた。とくに、ルイス軽機関銃を核心とした小部隊戦術は、増大する砲兵とおなじくらい重要なものだった。砲兵用法も西部戦線方式が導入された。軽量な、師団砲と榴弾砲が歩兵の直接支援を担当し、重量な、軍団および軍の砲と榴弾砲が対砲兵戦を担当した。これら複雑化する用兵に対応するため、歩兵軍団にあらたに重砲兵群が設置された。

体裁だけととのえても、じっさいに運用できなければ意味がない。アレンビーは兵隊の訓練者としても有名である。塹壕のなかに慣れた兵たちはそこからたたき出され、えんえんと戦闘訓練をくりかえした。

第1次大戦まえの歩兵は、いわゆる散兵線のたたかいを主としていた。彼我500メートル内外をへだてて散兵による線が展開され、中隊長の統制下でたがいに小銃を撃ちあうのである。普墺戦争、普仏戦争で確立された新しいたたかい方によって、それまでの戦列歩兵はすがたを消していった。20世紀初頭のボーア戦争ではさらに、陣地にこもるボーア兵の小銃による急射撃によってイギリス軍の正面攻撃は何度もざせつし、防御優勢が兵学界でささやかれた。1904年の日露戦争では、少数のみ配備された機関銃が偉大なる効果をもたらしたが、どうじに日本軍による"果敢な攻撃精神によって最終的にロシア軍が撃退された"とみなされたことで、"不撓不屈の攻撃精神"が頑強なる防御をよく制すとの考えがヨーロッパに蔓延した。

日露戦争の戦訓により、攻撃精神の吹鼓、機関銃の増大、重砲兵の野戦運用などが各国でおこなわれた。そして第1次大戦初頭の実相は、のちの世代の大戦のイメージを決定づけた。増大する火力は密集する歩兵たちをつぎつぎと吹きとばし、機関銃が一挺でも生きのこっていれば1コ大隊が阻止されるとまで言われた。ここに、散兵戦闘方式は機能不全をしめした。

これの解決方法を歩兵の観点からみる。

1.戦闘直接の指揮を下級単位にうつす
戦闘直接の指揮はそれまで中隊長がこれを担任し、敵火のはげしい場合は小隊に分散して行動していた。大戦になるや、猛烈な火力をさけるため自然にその指揮単位も小隊や分隊にうつり、各兵の歩幅も2歩から4-6歩にまでひろがった。中隊は数梯隊に重畳され、突撃、支援、塹壕掃蕩、機動などの数波にわかれて、いわゆる波状攻撃をおこなうことになった。

「攻者はもはや従来のような単純な攻撃法を夢想することができない。すなわち戦闘の経過は敵の第一線に突入後、縦深にわたって不規則かついたるところに配置された敵の自動火器に会し、しかもその威力下に敵の逆襲を撃退しなければならない。ここに混戦状態を惹起することになった。紛戦と称するのはこれである。すなわち、陣地帯内部において敵の抵抗点毎に多数各個各別の小闘を惹起し、かつこれら小闘群の兵力は概して半小隊以下となるのが実戦の常態となったのである」
参謀本部編 『戦後ニ於ケル英、米、独、仏四国ノ歩兵戦闘ノ概要』p.9

2.戦闘技術の分業化
大戦まえの歩兵がもっていた装備は、小銃を主として銃剣、要すれば手榴弾だった。歩兵戦力をあらわす古い指数としてライフル数(rifles)があるのもこのためと思われる。ところが大戦になるや一変した。歩兵中隊は軽機関銃、小銃擲弾、手榴弾、小銃、騎銃、銃剣、拳銃の7種の兵器を持つようになった。さらに、連隊ないし大隊のもとに重機関銃と直曲両用の軽砲(歩兵砲)がおかれ、戦闘に際しては大隊に野砲または山砲の一部までも配属して戦闘を実行させることがふつうとなった。いいかえれば、従来歩兵一人で担任していた射撃と突撃、つなわち火力と衝力の両任務をそれぞれ分担し、十数人の火力は一つの軽機関銃が担当して、その他の歩兵は突撃や軽機関銃の援護警戒および弾薬の補給に任ずるよう分業となった。歩兵火力もまた分業的で、重機関銃をもって遠戦用とし、小銃擲弾・手榴弾・銃剣・拳銃などをもって接戦用とし、それぞれその特異な技能を発揮させている。

砲兵の火力増大するにしたがい疎開する散兵が採用された結果、火力をおぎなう自動火器の使用がますますひろまった。しかし重機関銃は移動に難があり、攻撃では第二線で運用された。軽機関銃の配備はこれに革新をもたらし、第一線で使用される軽機関銃が歩兵火が主体となり小銃は補助的な役割となった。こうして、歩兵はさいしょ砲兵の援護のもとに、ついで砲兵と重機関銃の援護によって、敵前近距離に近接したのちは軽機関銃をもって近戦を開くこととなった。

このようにして、歩兵火は一人で操作できる自動火器の担任するところとなり、その他の兵員は主として突撃を担任した。そして、小銃擲弾手は遠距離より小銃擲弾を発射し、手榴弾手は近距離より手榴弾を投擲し、その他の兵員は突撃をおこなう、というように任務を分担することとなったのである。

3.歩・砲兵の協同をさらに緊密にさせる
砲兵と歩兵との協同動作は、これまでのように敵が一線散兵壕の陣地にこもっていたときにくらべ、いっそう複雑となった。一線散兵壕の陣地に対する攻撃では、砲兵は単に歩兵の突撃瞬間にいたるまで敵のただ一つの散兵壕を射撃し、歩兵は砲兵の最後の砲弾とともに突入すれば足りていた。

しかし、敵が数線の散兵壕、否、ある地点のいたるところに分散配置をとるようになってからは、単に最前線の敵のみを制圧するようでは満足できず、その後方の敵線ないし敵の火網に対し同様の共同動作を必要とするようになった。

これを解決する初期の方法は、砲兵はあらかじめ最前線の敵のみならず順次制圧すべき後方の要線を決定しておき、歩兵の突撃にさきだって逐次予定の敵線に火力を移動して歩兵を援助するということだった。この射撃用法は敵の要線を基準としたもので、いわゆる固定弾幕射撃とよばれた。

しかし、このあと敵の抵抗は、かならずしも顕著なる工事線のみならず、陣地帯内のいたるところで見られるようになった。たとえば、砲弾により生じた漏斗孔を利用して機関銃を配置するようなことがこれにあたる。ゆえに砲兵は、単にある地点に対する固定弾幕のみをもってでは歩兵の援助を十分にできなくなったので、固定弾幕のほかに移動弾幕を採用するようになった。すなわち、移動弾幕は敵の要線ではなく友軍歩兵の行動を基準とし、不断にこの射撃を歩兵の直前に指導するよう射程を延伸し、歩兵をしていたるところ砲弾の援護をうけさせるよう企図するようになったのである。


ながながと説明したが、ようは大戦まえと大戦後では戦闘法が一大変化したと思えばいい。アレンビーの歩兵と砲兵もあたらしい戦闘法に適応するため、訓練をくりかえすことになった。



参謀本部編 『戦後ニ於ケル英、米、独、仏四国ノ歩兵戦闘ノ概要』

戦いの世界史: 一万年の軍人たち戦いの世界史: 一万年の軍人たち
(2014/07/04)
ジョン キーガン、ジョン ガウ 他

商品詳細を見る

Combined Arms Warfare in the Twentieth Century: Warfare in the Twentieth Century (Modern War Studies)Combined Arms Warfare in the Twentieth Century: Warfare in the Twentieth Century (Modern War Studies)
(2001/04/20)
Jonathan M. House

商品詳細を見る

Ottoman Army Effectiveness in World War I: A Comparative Study (Military History and Policy)Ottoman Army Effectiveness in World War I: A Comparative Study (Military History and Policy)
(2014/04/28)
Edward J. Erickson

商品詳細を見る

The Last Crusade: The Palestine Campaign in the First World WarThe Last Crusade: The Palestine Campaign in the First World War
(2013/03/25)
Anthony Bruce

商品詳細を見る
Secret

TrackBackURL
→http://hikasuke333.blog113.fc2.com/tb.php/316-03ab54d5