「家康公、長久手のうち猪越原の東南山へ9日丑の刻着陣なされ、岩崎山の城のほうにあたって、鉄砲の音城攻め事々しく聞こえ候ゆえ、山をくだり早落城と見えて火の手あがり、別本にいう、ずいぶん御急ぎ被成候ところに勝川と申すところにて、(朱書)通邦曰く、本文は猪越原の東南山、権堂寺の山に着御、その山をくだり夜もあくるというなり、後人下文に御物具のことあるを見て、勝川のことと思うは妄なり、本文と齟齬す
稲葉通邦「参考長久手記」1850年

「小牧御陣長湫御合戦記」の「家康公長久手のうち猪越原の東南の山へ9日の暁寅の刻着陣被成候」の"東南の山"が権道山として解釈されている。

長久手の別動隊、池田、森、堀、三好にくわえて「小牧御陣長湫御合戦記」のとおり長谷川を入れた方が良いらしく、また「甫庵太閤記」にやられたという顔をしている。

陣立書を参考にすると、

池田勝入 2,000
池田元助 2,000
森長可 3,000
堀秀政 (A)3,000 (B)5,000
長谷川秀一 (A)2,300 (B)2,500
三好秀次 4,000
木下利匡 200
木下祐久 350

計16,850-19,050になる。堀と長谷川は長久手合戦前の数字が現存していないので
(A)長久手合戦直後のもの
(B)長久手合戦の損耗と回復を考えて8月以後のもの
で補った。
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