中東戦線 2014.08.06 (水)
とうとうシナイまで戻ってきましたね(^o^)

ロレンス? なんですかそれ(^o^)



第1次スエズ遠征が失敗に終わったあと、シナイ・パレスチナはしばらく平穏だった。ジェマル・パシャの第4軍は第8軍団および第12軍団を指揮下に置いたままですごした。戦闘がないのでジェマルは組織に手をくわえた。"砂漠部隊司令部"を新設し、これにシナイにおける部隊の指揮統制をまかせた。司令部はベエルシェバに本拠を置き、ドイツ人のフォン・クレス大佐が指揮官となった。

1915年の間、第4軍の第8、第10、第25師団がつぎつぎに引き抜かれてゲリボルに転出し、機関銃や野砲も送られてしまった。のこった大隊の多くがトルコ語を解さないアラブ人により構成されていた。(どうも第1次大戦期のオスマン軍はアナトリアトルコ人をもって第1級の兵卒と見ていた節がある。陸軍のトルコ化、民族主義化はバルカン戦争以降急速に増しており、比例するように戦闘有効性combat effectivenessも増大していった。帝国の守護者が帝国の多民族主義を否定すればするほど強くなるとは皮肉としか言いようがない。)

1916年もパレスチナ地域は平穏に新年をむかえ、2月エンヴェルが出張してきた。ジェマルとエンヴェルは首長ファイサルと会い、オスマン帝国への友好を確認し合った。首長フセインはすでにオスマン帝国のくびきを絶つため反乱を起こしはじめており、エンヴェルとジェマルはこれを心配していた。(よく知られているように、ファイサルも反乱を起こすことになる。)首長フセインが反乱を起こしてから、ジェマルはFahri Pasaにメディナの指揮を一任し、ヘジャーズ鉄道の維持もまかせた。

4月、土第4軍にドイツ製飛行機とオーストリア砲兵大隊が到着。飛行機はさっそくスエズ運河のイギリス軍陣地を偵察しはじめた。フォン・クレス大佐は作戦の再開を決断、4月23日にKantara近くのイギリス軍予備を牽制・抑留するため騎兵部隊を派遣し、主力の2コ歩兵大隊、1コ砲中隊(砲4門)をもってKatiaのイギリス騎兵を包囲した。作戦は功を奏し、Katiaのイギリス兵は降伏した。

4月末、ゲリボルの勇士の第1陣が到着した。第3師団である。ゲリボル、ゲリボルともう何度も書いているが、ゲリボル戦はのちのトルコ共和国で顕彰の対象になっただけでなく、オスマン軍の戦力を圧迫していたのは重大な事実である。一時は20数万の兵隊が蝟集し、野戦軍の半分は集中したとも思える。

クレスはイギリス軍の攻勢の気配を察知し、先制攻撃をかけることに決めた。戦力は第3師団を中心として兵11,873、小銃3,293、機関銃56、火砲30である。7月16日、部隊はKatiaおよびBir Romaniのイギリス軍まで接近し攻撃準備をはじめた。クレスは正面の英第52師団を牽制・抑留し、左翼より旋回して包囲せんとした。8月4日、攻撃開始した。午後にいたり、イギリス軍は逆襲し、翌日のイギリス予備による反撃により攻撃停滞した。クレスは敗北をさとり、8月7日、撤退しはじめた。オスマン軍の死傷者約1,000、イギリス軍の損害も1,100。イギリス側はクレスの兵16,000のうち半分が失われたとしているが、かりにイギリス軍の言う捕虜の数を考えても過大にすぎる。

この戦いのあと前線はまた不活発となった。



Anthony Bruce, The Last Crusade: The Palestine Campaign in the First World War
Edward Erickson, Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War
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