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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.07.30 (水)
やっとカフカスが一段落ついたぞ(^o^)

前回のあらすじ



メソポタミア方面のオスマン側上級司令部としてあらたに第6軍が設置され、フォン・デル・ゴルツ元帥が司令官として就任することになった。ただ、ゴルツは1915年12月12日にヌーレッディーンの司令部に到着したあとペルシャ方面の面倒も見ることになり、クート前面はヌーレッディーンがそのまま指揮をとることになった。

土第52師団が追及してきてヌーレッディーンと合流。新編の第6軍は第13軍団、第18軍団の2コ軍団をもって構成した。メソポタミアのオスマン軍はアラブ人主体からトルコ人主体へとシフトし、とくに防御戦闘の強靭性が増した。

12月3日、タウンゼントは、少ない食料と水のなか、36時間44マイルを踏破し、クートまで退却した。同じ日、タウンゼントは後方にいるジョン・ニクソン将軍にこう電報を送っている。「チトラルの時のように、私はクートを防衛するつもりです」。ニクソン将軍は、ふたたび退却する方針には賛成しないし、タウンゼンドが優勢な敵部隊を阻止することによって部隊の義務を果たしていると返答した。
※チトラルは今のパキスタンの一地区で、タウンゼントは1895年守備に成功している。

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12月10日および11日、土軍の3コ師団でクートに強襲をかけたが失敗。23日までに、オスマン軍は兵約25,000、砲約50を算している。24日の強襲も死傷者1,000を出して失敗し、さらに12月末の攻撃でもクートの守りを崩せなかった。

イギリス側はタウンゼント救援部隊としてエイルマー中将にチグリス軍団の指揮をとらせた。エイルマー将軍はタウンゼント将軍が十分な食料物資を有していると判断し、チグリス軍団の集中を待ってから出発しようとした。彼の手元には第7師団と1コ騎兵旅団および1コ歩兵旅団しかいなかったのである。しかし、ニクソン将軍はシェイク・サアドSheikh Saadを目標として前進を命じた。

ヌーレッディーンは損耗のはげしい第38師団を解散して人員を第35師団に当て、さらに軍を2つに分けた。第45、51師団よりなる第18軍団はクート包囲を続行。第35、第52師団よりなる第13軍団は約30キロ向こうのイギリス軍救援部隊を迎え撃つ。ちょうど古代アレシアの戦いのような展開となった。

1916年1月6日、エイルマーはシェイク・サアド前面でオスマン軍陣地を発見し、騎兵に威力偵察させたが、これは簡単に撃退された。8日、大規模な攻撃をかけて失敗し、12日には夜襲をかけた。16-21日間、攻撃をかけたが実りは少なかった。イギリス軍は正面攻撃をくりかえし、陣地にこもるオスマン軍を攻めあぐねた。

オスマン軍の作戦は順調だったが、ヌーレッディーンはハリル・ベイと交代させられてしまった。昨年12月に余計な損害を出したとエンヴェルが過敏に反応したためと言われる。20日に指揮を委譲してヌーレッディーンはカフカースに転出。代わったハリルはヌーレッディーンの基本路線を踏襲した。そもそも有利な状況下にあったのだから当然だろう。

第3師団の全部と合流した英チグリス軍団は、3月に2度攻撃をかけたがやはり失敗した。オスマン側はゲリボルのベテラン第2師団が合流し、防御線をクート東10キロまで下げて強力な防御線を構築した。

クートに食料が少なくなると焦るイギリス側は4月に断続的に攻撃をかけ解囲を試みんとした。オスマン帝国の兵士(アスケリ)がいかに無学とはいえ、下士官が少なく小部隊の柔軟性に欠けるとはいえ、防御戦ではその持ち前の忍耐強さを発揮した。イギリス救援部隊の最後の望みをかけた4月22日の攻撃も失敗し、ついに食料の尽きんとするタウンゼントは降伏を決断した。

1916年4月29日13時、オスマン軍部隊がクートへ行進入城した。タウンゼントの第6プーナ師団13,309名がまるごと捕虜となり、これだけ一度に大量の捕虜を出したのは1783年ヨークタウンの戦い以来のことである。そしてこの記録は1942年シンガポールで破られることになる。

クート包囲戦における彼我損害でも、イギリス側19,863に対してオスマン側8,835と、2倍以上の差を叩きだした。ハリル大佐は"クテュル・アマレの英雄"として称賛され、パシャの称号を得た。ゲリボルにつづく大勝利である。くわえて、ゲルボルには多くのドイツ将校が参加していたが、メソポタミアの作戦に参加していた者は皆無にちかく、ドイツ将校がいなくても物資さえあれば十分にその軍隊が機能することを証明した。


なお、クート戦の捕虜を劣悪な環境下でイスタンブルまで歩かせ何千名も死に至らしめた、"死の行進"をさせたとイギリス側は非難している。また、これまでの展開からオスマン帝国の貧乏さについて察してもらえるものと思う。イスタンブルの捕虜収容所も劣悪な環境だったようで、クート戦もふくめて多くの連合軍捕虜が死亡している。



樋口正治 『自一九一四年至一九一八年 近東に於ける前大戦の考察』
Erickson, Edward. Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War.
Erickson, Edward. Ottoman Army Effectiveness in World War I: A Comparative Study.
Wilcox, Ron. Battles on the Tigris: The Mesopotamian Campaign of the First World War.
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