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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.07.21 (月)
戦力をかき集めたこととエンヴェルの訓戒により、オスマン軍は中央部と南部で限定攻勢をかけるに決した。1916年3月下旬の最初の攻撃は、エルズルム奪還の足掛かりとなる土地を確保することを狙いとしていた。この攻撃はほどほどに成功した。

さらに、エンヴェルとヴェヒプはトラブゾンから海上輸送で運ばれてくるであろうロシア援軍を危険視し、トラブゾン奪還を命令した。6月26日、第5軍団はトラブゾン奪還のためポントス山脈に攻撃をかけた。最初攻撃は成功したものの、戦果を拡張する十分な戦力を持っていなかった。攻勢は目標まで行くことなく止まってしまい、第5軍団は消耗してしまった。

第5軍団はあきらめず再度攻勢をかけた。第9師団と第13師団を用い、黒海沿岸に向かって北へ進撃した。6月28日までに海から10キロ内外まで確保したものの、ロシア軍の防禦はかたく7月2日には頓挫してしまった。これらの反撃は第3軍から戦闘能力を奪ってしまい、再度危険な状態に至らせてしまうことになる。

トラブゾン占領のあと、ロシア軍は戦力を温存していた。そしていま、エルズィンジャンを目標に大規模攻撃をかけんとした。7月2日、ロシア軍はバイブルト方面に戦力を集中した。1週間もたたないうちにバイブルトの郊外まで達し、正面の土第10軍団は英雄的に戦ったものの、土地を守ることはできなかった。7月17日、バイブルトは陥落した。

7月19日、バイブルト橋頭堡よりロシア軍は攻勢を再開した。Karasu川をわたって攻撃をかけ、土第9軍団と第10軍団を痛打した。川をわたれば平野に出てエルズィンジャンまで自然障害はもうなかった。7月25日、ロシア軍はエルズィンジャンに進入した。ヴェヒプ・パシャは、エルズィンジャンを固守するよりアナトリア中央部に至る西の入り口を保持するほうが重要だと考え、街を放棄した。28日、ロシア軍は停止した。

バイブルト、Karasu、エルズィンジャンの戦闘で、第3軍は推定で死傷者17,000、捕虜17,000を出した。死傷者と同数の捕虜というかつてない事態となった。トルコ側は一連の戦いを"チョルフ戦役"と呼ぶ。



8月2日、土第2軍が待ちに待った攻勢を開始した。アフメト・イッゼト・パシャはヴェヒプ・パシャの救援と陽動攻撃の要請をすべて断り、攻勢準備につとめていた。攻勢は南側面より指向し、第1目標がマラズギルト、最終目標をEleskirt Valleyとしていた。

このときの第2軍の戦力は以下のとおり。第3軍団(第1、第7、第14、第53師団)、第2軍団(第11、12師団)、第4軍団(第47師団。第48師団は移送中)、第16軍団(第5、第8師団)、第3常設騎兵師団、5コ重砲兵大隊。大半がゲリボルの戦闘経験者である。

第2軍の攻撃は、戦力の集中に失敗していた。それぞれ3つの軍団規模集団が別々の点から攻撃をかけていた。第16軍団はビンギョル地区を攻撃し、第3軍団はOgnot地区を攻撃し、第4軍団はKigiを攻撃した。ムスタファ・ケマルの第16軍団は早々にビトリスとムシュを占領したものの、中央部第3軍団と第4軍団は錯綜した地形のため攻撃に手間取ってしまった。

ロシア軍がエルズィンジャンへの攻撃途中ならば、第3軍を救い偉大なる戦果を得たかもしれない。しかしいまやロシア軍には第2軍の攻撃に対し予備を回す余裕があった。

ロシア軍はオスマン軍の反撃をとめるべく経験豊かな山岳部隊を移動させていた。オスマン帝国に非友好的なクルド人の手助けにより、ロシア軍部隊は地図にない道を進んでいった。8月18日までに、前線への増援を完了し、軍団規模の反撃を行うことができた。

9月初めにオスマン軍の攻勢は停滞し、9月26日に雪が降るや完全に止まってしまった。いくつかの土地は奪い返したものの、第2軍は甚大な損害を被ることとなった。兵100,000のうち死傷者30,000。ゲルボルの勇士の名に恥じず、捕虜となった者は少なかった。9月のおわりには、第2軍の歩兵は65,000にまで数を減らしている。


失われた将兵は重大な意味を持っていた。第2軍の将兵は1916年の最後の戦略予備だったのだ。しかし、第3軍は壊滅し、第2軍は手ひどい打撃を受けた。以降、オスマン帝国が大規模な攻勢に出ることはなかった。かれらは決戦に敗北したのである。
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