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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.07.13 (日)
前回のあらすじ



2月8日、ロシア軍カフカース方面野戦司令官ニコライ・ユデーニチ(※)は司令部に上級指揮官を集めて夕食を催し、すでに伝達していたエルズルム攻撃計画について確認しようとした。食事のあとユデーニチは話しはじめた、「それでいま、諸君、われわれの仕事についてだが。私の命令はすべて把握しているかね? われわれは10日に攻撃する」。それから沈黙した。さらなる延期の必要性を説明しだす者がおり、他の者は議論の始まりにそなえた。しかしユデーニチはすぐにうなだれた言葉でさえぎった。「わかった! 11日に攻撃する」。そう言って彼は客人たちを立ち去らせた。
Caucasian Battlefields. p.356
※精査していないがカフカース方面軍総司令官としてニコライ大公がいたが、野戦軍の指揮をとっていたのはユデーニチ

1916年2月11日14時、ロシア軍は攻撃準備射撃を始め、エルズルム要塞のなかで主にCobandedeとDalangözの中央堡塁の第1線に砲撃が集中し、20時まで続けられた。ロシア歩兵は夜陰にまぎれて山をくだっていった。このときロシア軍はオスマン軍に比べて3倍の戦闘員を擁していた。オスマン歩兵大隊は350名しかいなかったが、ロシア歩兵大隊は完全充足の1,00名だったのである。
Ordered to dieは図がほとんどないので現状Caucasian Battlefieldsより詳細な図を見つけられていない。

堡塁の戦いはまるでフランスにおけるヴェルダンのごとく血を血で洗う白兵戦が展開された。状況は土第10軍団地区でとくに危険となり、オスマン軍司令官キャーミル・パシャは支援のため連隊レベルの予備をそこへ投入した。12日までに、ロシア軍はエルズルム要塞の第1線堡塁の深く侵入していた。オスマン側はロシア軍の猛襲を阻止せんと数少ない手持ちの予備を投入していた。オスマン第3軍の別の地区では、ラジスタンとチョルフ川でロシア軍が支援攻撃を始めた。

その後、5コ連隊規模縦隊によるそれぞれ別の経路からの突撃によりオスマン軍の防御は崩れはじめた。攻勢の中ごろで、天気は吹雪に変わり、野外のロシア軍にとくに影響を与えた。しかし吹雪とオスマン軍必死の努力にもかかわらず、堡塁群は圧倒的なロシア軍攻勢の前に風前のともしびであった。

12日夕暮れまでに、露師団の先導部隊はついにエルズルム平野を見下ろす位置まで到達した。北の堡塁群へのロシア軍支援攻撃は等しく成功していた。エルズルム保持は不可能なのは土第3軍参謀にとって明らかだった。オスマン軍は後退戦闘と兵の退却を決定し、ロシア軍の占領前に物資を後送することも決定した。翌日、オスマン軍は後退しはじめた。第1線堡塁を後退援護のため見捨てながら。オスマン軍が退却しはじめるや、ロシア軍の突撃の勢いも、とくに街の北で増した。

2月16日7時30分、ロシア軍はエルズルムの街に入った。ロシア軍の包囲から逃れるべくオスマン軍は歩兵の大部分を脱出させることができたが、第3軍の多くの支援部隊が捕虜となった。250名の負傷者を抱えるエルズルム軍事病院もまた捕えられた。タコ殴りにされた第10軍団と第11軍団は町の西約8キロの地点に新たな防御線を敷いた。

オスマン軍は要塞の火砲のほとんどの327門を鹵獲され、第3軍は死傷者10,000以上を出した。また別に5,000名が捕虜となった。人員損耗の多くは第10軍団に集中し、第11軍団では第34師団が事実上殲滅された。ロシア軍は、エルズルム陥落によって第3軍は壊滅したと予想し、追撃にむけて準備しはじめていた。

のちの行動報告によれば、キャーミル・パシャはエルズルム失陥の責を兵力に対して前線が広すぎたことに帰している。ゲリボルのヘレス岬では、土軍団は5-6キロを占領し、アナファルタラルでは10キロより狭い範囲だった。エルズルムでは、第3軍の軍団は30キロないしそれ以上長い正面を担任していたのである。
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