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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.06.25 (水)
前回のあらすじ



1916年1月、カフカースのオスマン第3軍はつかぬ間の平穏を享受していた。この時期、軍司令官のマフムート・キャーミル・パシャ(准将)は首都へ行って留守にしており、参謀長のGuse大尉はチフスにかかり療養のためドイツに帰国していた。軍自体は去年の冬の防御陣地と変わっていない。西部戦線のように、とはいかないまでも縦深陣地を構築していた。

第3軍が弱体化したままであることも変わっていない。夏の損害の回復もままならない3コ軍団が主力のままである。第1派遣隊と第5派遣隊は師団に改編されてメソポタミアの援軍として送られた。時まさにゲルボルのいくさがたけなわであったために、戦略予備のほとんどがそこへ集中した。そして、のこったトラキアの第1軍、第2軍の師団を東方に移動させるのはためらわれた。強大なるロシア黒海艦隊が首都の背後を脅かし、イスタンブルへ向けてすくなくとも軍団レベルの上陸作戦が可能であるとオスマン参謀本部が判断したためである。

1月時点で、オスマン第3軍は126,000名有し、このうち機動部隊に配属された歩兵が50,539名。第9、10、11軍団は平均して11,500名。エルズルム要塞をふくめた軍の野戦戦力は小銃74,057、機関銃77、野砲180だった。

各軍団はエルズルムへいたる街道を守備し、キョプリュキョイにおいて防御線を敷いていた。南方地区であるワン湖北では、第3予備騎兵師団、第2常設騎兵師団、第36師団が広大な戦場に展開していた。トラブゾンへいたる北方経路は、臨時編成の弱小な歩兵部隊によって守られていた。最後に、防衛戦略は"ロシア軍が攻撃してこないこと"にかかっていた。

いっぽうのロシア軍は兵約200,000、砲約380有していた。対峙するオスマン軍はこれに対応しうる予備兵力を持っておらず、疑いようもなく危険な状態であった。ロシア軍がいったん攻撃を決心したならば、攻撃点に決定的優越を達成するほどの部隊を集結できた。



1月10日、ユデーニチ将軍ひきいるロシア軍は冬季攻勢を開始した。第3軍もオスマン参謀本部も完全に奇襲された。攻撃はキョプリュキョイ線のオスマン軍の集結する心臓部へ直接指向され、重要都市とエルズルムの急襲確保を目的としていた。オスマン軍はこの地区へ戦力の大半を割いていたのだが、断続した防御線があるというのではなく、たった一つ要塞化した防御線があるだけだった。ゲリボルの連続陣地とは異なる強点システムは決定的な攻撃には弱いことを証明した。ロシア軍の最初の攻撃で、真正面の第11軍団はくずれた。オスマン軍はロシア軍を拘束するため手持ちのわずかな予備戦力を投入し、さらに第3軍司令部は効果的に指揮するためエルズルムからハサンカレに移動した。

14日までに、ロシア軍は第11軍団の防御網を破壊し、つづく3日間でキョプリュキョイ線を奪取した。18日までには、エルズルムより中間点のハサンカレにまで達した。その次の朝には、オスマン軍後衛の4コ大隊が殲滅された。たった一週間でカフカースのオスマン軍は崩壊しようとしていた。

1月19日時点で第3軍司令官のマフムート・キャーミル・パシャはイスタンブルにおり、実際の指揮はアブドゥル・カリム・パシャがとっていた。キャーミル・パシャはともかく、参謀長として補佐するドイツ人参謀将校の不在は軍の戦術配置や反応能力に悪影響をおよぼした。

キョプリュキョイの戦いでオスマン第3軍は約10,000の損害をだし、火砲16がうしなわれた。幸運にも、40,000もの敗残兵はエルズルム要塞へと後退することができた。ロシア軍は捕虜5,000を獲得し、その見立てではおなじくオスマン兵5,000が脱走したと見ている。

オスマン軍の損害は第11軍団に集中し、戦力の70%を喪失した。しかし第10軍団の損害は軽微で済んだ。オスマン軍は叩きつぶされ大敗北を喫したが、なんとか秩序だって後退し、戦果拡張せんとするロシア軍を拒止した。


このときオスマン側は知るよしもないが、ロシア軍はエルズルム自体を確保せんとする計画を立案しはじめていた。

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