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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.06.09 (月)
前回のあらすじ

キルテ攻防戦はとばした



1915年7月終わり、ザンデルス率いる第5軍は17コ師団を有するまでに膨張し、セッデュルバヒル地区(ヘレス岬)を担当する南部集団には第2軍から参謀が出張してきていた。28日時点で、第5軍は計250,818名、動物69,167を数えるまでになった。ゲリボル半島では、エサトの弟であるヴェヒプ・パシャが南部集団を指揮し、アルブルヌではエサト・パシャが北部集団を指揮していた。

スヴラ湾には、Willmer大尉の警戒部隊が配置されているのみだった。ザンデルスは依然サロス湾への上陸を危険視し、2コ師団をここに配置していた。エサトもサロスのほうに注目していたが、ケマルはスヴラ湾上陸の危険性を重大視していていた。

8月6日、英第16軍団はスヴラに強襲上陸を敢行した。ながい海岸線を守るのにWilmerの部隊ではいかんともしがたく、イギリス軍は早々に橋頭堡を確保した。しかし重要な高地をおさえておらず、その前進は遅々としていた。

ザンデルスはゲリボル北方の土第16軍団の2コ師団に南下するよう命令した。土第16軍団は駆け足の急行軍で一日たらずで南進し、ザンデルスが思っていたより一日はやく到着し彼を驚かせた。しかし土第16軍団長はスヴラの敵に反撃をくわえんとしたが、将兵は急行軍に疲れて動けなかった。

ここにおいてザンデルス・パシャはスヴラの敵に対しあらたな対抗部隊を編成する必要を感じ、ムスタファ・ケマル大佐をしてアナファルタラル集団長に任命。アナファルタラル集団は第16軍団、第9師団、Wilmer隊を指揮下に入れた。

8月9日朝、オスマン軍はスヴラのイギリス軍に対し4コ師団を集結させた。ケマルは反撃を命じ、上陸地点から数キロのところまで押し返した。

アルブルヌとセッデュルバヒルでも同じようなことが繰り返された。イギリス軍による攻勢はオスマン軍の防御陣地の前に少ししか前進できず、増援をうけたオスマン軍の反撃によって追い返された。

8月12日、15日、そして27日にイギリス軍は攻勢をかけるもついに決定的戦果を得ることができなかった。

両軍ともに物質的にも精神的にもつかれはてた。オスマン軍の側では、援軍として第1軍から4コ師団が派遣された。砲弾の不足は著しかったが、9月にいたりブルガリアが中央同盟国側として参戦するやドイツ・オーストリアと陸地でつながり徐々に解消されていくことになる。

9月9日、オーストリア240ミリ榴弾砲1コ中隊、独150ミリ榴弾砲1コ中隊、1コ迫撃砲中隊がUzunkopruの西鉄道ターミナルに到着した。同じく500名ものドイツ・オーストリアの技術者も派遣されてきた。

11月、待ちに待った砲兵弾薬が到着しはじめ、オーストリア重砲兵数コ中隊もゲリボルに到着。エンヴェルと参謀本部はついに連合軍を海に追い落とす機運が生じたと確信した。

だが、そのときは来なかった。

1915年12月20日4時、Ali Remzi大尉は前哨より敵の陣地に人気がないとの報告をうけた。すぐに第5軍司令部に報告され、大尉は前進を命令された。イギリス軍塹壕を150メートル突破したが無人であった。スヴラとアルブルヌの連合軍はすでに撤退していたのである。

翌1916年1月8-9日、オスマン軍が注視していたにもかかわらず、ヘレス岬の連合軍も撤退に成功した。連合軍占領地域には大量の物資が置きのこされたままで、オスマン軍が使用するのに2年間は持つとザンデルスが思ったほどである。

1月9日8時45分、第5軍司令部ザンデルスよりエンヴェルへ機密通信文、

「神に感謝す。ゲリボル湾上の敵は一掃されたり」

ドイツ兵制にしてすでに数十年、列強に肩を並べ勝利をも掴み取ることができるようになった記念すべき瞬間であった。

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