スポンサー広告 --.--.-- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.05.25 (日)
Bayburt、エルズルム、Beyazit、Tortum、ディヤバクルでもワンにつづいて革命がおきた。これら革命の大部分はもとをたどればアルメニア民族主義党の支援と教唆によってもたらされたものである。

アルメニア人の武力革命へのオスマン帝国側の反応は1915年4月から夏にかけてエスカレートしていった。4月20日、エンヴェルは第3軍宛に機密通信文を送っている。アルメニア人兵士やギリシャ人兵士が危険な反乱地帯で脱走していることの確認。反乱を鎮圧するのにオスマン軍の常設部隊や機動ジャンダルマを使用するのは妥当ではないこと。辺境ジャンダルマを反乱者に当てること。そして、エンヴェルは反乱者を一人捕まえるごとに1トルコリラを支払うシステムを薦めている。

Sivas首長Muammer Beyからのメッセージはこの計画の重大な問題を晒している。彼が言うには、彼の県(vilayet)では兵役に適するアルメニア人15,000がロシア軍に入るためいなくなっているが、いまだ15,000人のアルメニア人が県にのこっている。不幸なことに、50歳以下のトルコ人男性は全員徴兵されて辺境の村を離れており、アルメニア人の略奪に対してなすすべがない。ムスリムを保護するよう対応してほしい、辺境ジャンダルマだけではこの任務を完遂するのはむずかしいと。

4月24日、エンヴェル・パシャは参謀総長として重要な指令を出している。アルメニア人は戦争遂行に甚大な障害となっており、東アナトリアが特にひどい、そして地区からアルメニア人を移住させる計画の概略を記している。

4月24日付指令は移住計画に割り当てられた作戦地区として、東部アナトリア6県(vilyet)、Zeytun、ディヤバクル南部地区を明らかにしている。ユーフラテス峡谷、Urfa、Suleymaniyeへアルメニア人を移動させることを意図していた。この命令の目標は東部アナトリアでアルメニア人がムスリムの10%にまで下げることだった。最後に、指令ではアルメニア人を"丁重に扱うように"としていた。

オスマン軍正規部隊はこの強制移住を扱えるような状態になかった。おりしもゲリボルに英仏連合軍が上陸し、メソポタミアではイギリスの遠征軍がバグダードを目指して攻勢を始めていた。カフカースでは、アルメニア人の蜂起に呼応するかのようにロシア軍が攻勢をかけていた。オスマン軍師団は四方へ投入され余裕がなかった。トラキアに大兵力が控えていたが、バルカン戦争でのエディルネ失陥の衝撃はいまだ醒めることなく、ロシア軍が黒海よりイスタンブルへ向けて上陸作戦をおこすような陽動を行っていたため、容易に動かせなかった。

エンヴェルはこれを解決するため、アルメニア問題を内相に依頼した。バグダード鉄道25キロ圏内にあらたに村が建設されることになり、地方行政府がその道筋の支援を担当した。しかしそもそも第1派遣隊と第5派遣隊に見たように兵隊でさえ長期行軍にすれば少なくない損害が出るような土地である。多くが女子どもと老人であるアルメニア人の集団が徒歩で移動するのを想像するや察してあまりある。地方政府の支援は十分ではなく、これを監視したのが素質劣等なる内相の部隊と、素質劣等でさらに反乱でヒートアップした現地の辺境ジャンダルマである。さらにクルド人義勇兵とチェルケス人義勇兵の眼も血走っていたにちがいない。

エンヴェルの計画は実体をともなっていなかった。1916年中ごろには、東アナトリアのアルメニア人は激減し、第3軍の後背地は安全となった。アルメニア人将校は解任され、兵卒は労働大隊で働かされた。のこりはロシア軍に走った。

1915-16年のアルメニア反乱と強制移住によって何十万人ものアルメニア人が死んだといわれる。吉村貴之は諸書平均して60-100万人としている。また、アルメニア革命と東アナトリア領のロシア軍の占領によって、何十万人ものムスリムも死亡した。

この問題の争点は"計画的に"虐殺があったのか否かにある。アルメニア側はエンヴェルら統一と進歩委員会が前々から虐殺を計画をしていたと非難している。トルコ側は、強制移住はおこなったが多くのアルメニア人が死んだのは不運が重なったためで計画的なものではないと弁明している。



いつも通りだいぶ端折った。
Secret

TrackBackURL
→http://hikasuke333.blog113.fc2.com/tb.php/293-3b3d9da8

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。