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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.05.23 (金)
1915年中におこったアルメニア人の強制移住とそれにともなう虐殺は、今日でも政治問題として俎上にあがる。トルコ側とアルメニア側ではまったく意見が異なり一致を見ない。日本でいう「南京大虐殺」のようなものだろう。ここではOedered to dieを主に書く。トルコ軍参謀総長お墨付きの見解であることに注意されたし。



16世紀、地中海に覇を唱えたオスマン帝国も19世紀には「ヨーロッパの病人」と呼ばれるほどに衰退していた。バルカンの民独立し、オスマン帝国内のアルメニア人もまた自治の拡大をめざした。19世紀末にはクルド人や現地のトルコ人などムスリムとの日常的な抗争が激化していたと思われる。

吉村貴之は1915年の悲劇の端緒を1912年バルカン戦争のときとしている。オスマン帝国内のギリシャ正教徒が"敵国"ギリシャ政府に寄付をしていたことが明らかとなり、ギリシャ商店排斥やムスリム商店愛顧運動がくりひろげられる事件がおきた。以降、オスマン帝国の統一と進歩委員会は帝国内のキリスト教徒を猜疑心で見るようになった。

ロシア帝国内のアルメニア人は独立を求めてオスマン帝国領へ潜入し武装闘争をくりひろげた。有名なのがダシュナク党である。ダシュナク党も以前は統一と進歩委員会と協調していたが、バルカン戦争後はとくに仲が悪くなっていった。欧州大戦勃発するやオスマン帝国政府はアルメニア側に利敵行為をしないようにと念を押していた。

1914年9月、エルズルム要塞司令官は、ロシア軍のアルメニア人連隊が動員され戦闘訓練をしていると報告している。10月20日、オスマン第4予備騎兵連隊はハッサンカレのアルメニア人住居でロシア製小銃を押収している。10月初めには、ロシア軍所属のアルメニア人が地図と金を持ってオスマン帝国に潜入していると第3軍は報告を受けている。

1914年11月、ロシアがオスマン帝国に宣戦布告するや状況は最悪となった。アナトリア北東部でアルメニア人武装勢力はムスリムに対する破壊行為をくりかえした。さらにアナトリア南東のコンヤ、アダナ、アレッポにある鉄道線への破壊活動をおこなっている。

1915年4月14日、ついにアルメニア人はワンで蜂起した。オスマン軍側はワン・ジャンダルマ師団も送り、これを包囲した。第1派遣隊や2コジャンダルマ大隊増強の第28師団も増派されたが、5月末ロシア軍がこれらを撃破してワンの包囲を解いた。

ワン地区では大規模なアルメニア人男性の虐殺が目撃されている。オスマン軍の仕業と言われるが、多くはクルド人やチェルケス人がやったことである。もちろん、アルメニア人もやられてばかりではく、武装してムスリムに対抗した。



Edward Erickson, Ordere to die
吉村貴之『アルメニア近現代史』
吉村貴之「歴史と現在 『アルメニア人虐殺』の場合」(黒木英充編『「対テロ戦争」の時代の平和構築』)
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