ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.05.07 (水)
カフカスです(^o^)




第3軍司令官ハック・ベイ准将が病死したあと、マフムード・キャーミル・パシャ准将があらたに司令官に就任した。新司令官の最初の任務は打ちのめされた軍の立て直しにあった。この目的のために第1軍、第2軍から戦力が割かれた。

メソポタミアからの第36師団がようやく到着し、ヴァン湖付近第3軍の南側面を占領した。おなじく第3軍を目指していた第37師団は来なかった。トルコ人義勇兵とクルド不正規兵の集団によるタブリス占領を活かすよう転進させられたためである。

1915年3月中ごろまでに、第10軍団と第11軍団が前線に戻ってきた。戦力はおおきく落ち込んでいる。第9軍団はオルトゥーの山に消えた砲兵部隊と支援部隊の生きのこりから再編成され、防衛地区も割り当てられた。4コ予備騎兵師団はもはや再建不可能と判断されて解散、最良部隊を集成して第3予備騎兵師団が編成された。

4月に入り、南部の都市Eliskirt、Agri、Dogubeyazitが占領されたものの、北部ではロシア軍は動かず平穏そのものであった。この機会を利用して第10、11軍団で前線を維持し、第9軍団は後方に下げられて再訓練に当てられた。第5派遣隊は予備として控置され、第2常設騎兵師団と第3予備騎兵師団のみのうすい騎兵幕によってエルズルムからヴァン湖までの無防備な戦線を監視した。ヴァン・ジャンダルマ師団と第1派遣隊はヴァン湖南部に展開した。

5月6日、エルズルムにむかってTortum Valleyよりロシア軍が攻勢にでた。オスマン側は約15キロ土地をうしなうも、土第29、30師団の反撃にでて撃退した。5月24日、ロシア軍の攻勢は止まった。第3軍は奪われた土地を取り返すため、6月11日、第10軍団をもってロシア軍の突出部へ側面攻撃をかけた。13日までにロシア軍は撃退され最初の地点にもどった。

南部では、オスマン軍は苦戦を強いられた。ヴァン・ジャンダルマと第1派遣隊は撃退され、5月17日ロシア軍がヴァンを占領しさらに圧力を与えつづけた。ヴァン湖北方では、第1、第3騎兵旅団が南へ圧迫されられて5月11日マラズギルトを失陥した。6月5日までに、ロシア軍はヴァン湖北岸に達しムス(Mus)への道を脅威した。ヴァン湖付近の南北両方をロシア軍が手に入れたことで巨大な突出部が現出した。



Caucasian battlefieldsでは、1915年夏ニコライ・ユデーニチ将軍ひきいる露カフカース軍の戦力を歩兵130,000、騎兵35,000、火砲340としている。しかしオスマン側は歩兵64,800-73,600、騎兵8,400-9,240、火砲130と推定しており、ロシア軍は紙上より戦力がかなり低下していたとみられる。

一方のオスマン第3軍が機動作戦に使用できる戦力は52,351しかおらず、火砲も131しかなかった。これらの軍隊が600キロにわたる戦場に展開していたのである。とうぜん隙間だらけになる。


南部がオスマン第3軍の弱点であると察知したロシア軍は作戦の重点を南東にうつした。6月10日、露第4カフカース軍団がヴァン湖北方マラズギルトよりムスにむかって攻勢を開始した。ロシア側は気づいていなかったが、土第3軍は第9軍団をムス北東地区に配置しており、さらに第1派遣隊と第5派遣隊がロシア軍攻勢の南側面に展開していた。

オスマン軍はアブデュルカリム・パシャ准将の指揮する右翼集団をあらたに編成。ヴァン湖付近の部隊を指揮下に入れ、第3軍とは独立しエンヴェル直轄の部隊として活動した。第3軍の機動戦力53,000のうち35,000を擁する強力な部隊である。マラズギルトのロシア軍は歩兵10,000、騎兵5,000しかいなかった。

オスマン軍は部隊を秘匿することに成功した。6月16日までに土第9軍団の師団が時間稼ぎをしているうちに第5派遣隊がロシア軍を痛打した。アブデュルカリムはそのまま攻撃をつづけ、甚大な損害をロシア軍に与えながら、6月26日マラズギルトを奪還できた。しかし勝利の対価は高くついた。5月以来、土第3軍は58,000名近くうしなっている。

エンヴェルはさらにEliskirtへの進撃を命じ、この野心的な計画を「牛の眼指令Bull's Eye Directive」と呼んだ。(重訳すると作戦名の感性がまったく伝わってこない)

8月最初の週、右翼集団はEliskirt Valleyを攻撃し、5日には20キロ北方に前進した。しかしここでロシア軍が反撃にでる。

露将ユデーニチはバラトフひきいる部隊(歩兵18,000、騎兵4,000、火砲36)を北西に招致し、オスマン軍の左翼側面を攻撃させた。サルカミシュの過ちをオスマン軍はまた犯した。ほとんどの戦力を前線に投入していたために適切な予備がいなかったのである。幸運にもエルズルムから第9軍団の第29師団がちょうど戦場に到着したのに助けられ、これを左翼側面に展開して圧力をやわらげた。

包囲の脅威にさらされてアブデュルカリムは攻勢の中止と退却を命じた。ほうほうのていで逃げ出し、また火器・装備をうしなってしまった。この作戦でオスマン軍は死傷者10,000を数え、約6,000が捕虜となった。



オスマン第3軍はまたもやズタズタに切り裂かれた。しかもこのときダーダネルス戦役が勃発しており、そちらが優先となって戦力回復は遅々として進まなかった。ロシア軍も数字はないがかなり消耗してしまい、1916年になるまでカフカースでは大規模な運動戦が行われなかった。

サルカミシュとヴァンで見たように、オスマン軍は作戦次元での移動と攻撃のすべを身につけていた。これを過大視したのがエンヴェルである。彼の無茶な作戦指導によって現場の指揮官は戦力のほとんどを前方に投ぜざるを得なくなり、十分な予備を控置しておくことができなかった。結果、ロシア軍の反撃によって撃退されてしまったのである。



地図がなくてわからない? わたしにもわかりません!! 

カフカース戦役は英語でも本が少なく、Ordered to dieとCaucasian battlefieldsぐらいしか参照本がありません。あとはCaucasian battlefieldsをCornishがやさしい英語で要約してるぐらい。グーグルマップで本気出すしかない(^o^)

トルコ公刊戦史カフカース編があれば…
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