ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.05.05 (月)
地誌



戦役計画にもとづきエンヴェル・パシャはスエズ運河攻撃計画を承認した。

不幸なことに第2軍と第6軍団はトラキアに配置転換されていた。イギリスとの多正面戦争を予期せずパレスチナは後背地と見られていたためである。パレスチナには第8軍団しか残っていなかった。

攻勢のためあらたに軍司令部がパレスチナに設置され、メソポタミアの第7軍団(2コ師団)が移動してきた。さらにRodosto(Tekirdag)から第8師団、Symrnaより第10師団、ヘジャーズより第22師団がパレスチナに移動となった。いずれも第一級師団である。第25師団もあらたに編成され、第8軍団に入れられた。

シリアの部隊が北方に行き、北西の部隊がシリアへ南下して互いの部隊がすれ違うという奇怪な事態が生じた。注意深くデザインされたはずの集中計画であったがボロが出ていた。

1914年9月6日、第4軍が創設され、エジプト攻撃のための計画と準備を始めるよう任務を付与された。11月18日、海相ジェマル・パシャがイスタンブルより到着し、第4軍の指揮をとった。ジェマルとともにvon Frankenberg大佐が第4軍参謀長、Freiherr von Kress中佐が第8軍団参謀長に就任し攻勢作戦の計画を練った。

クレス大佐が主に策定した案では1コ軍団全部でパレスチナからシナイ砂漠を行軍することになっていた。軍団は1コ師団を使用してイスマイリアを奇襲確保する。これは中間点でスエズ運河を分断することになり、オスマン軍は英国艦艇の強力な火力を打ち消せるかもしれないと考えた。クレス案では、そのうえで2番目の師団が運河をわたり、これを別の2コ師団が側面確保するよう展開することになっていた。

計画は冒険的であった。しかしオスマン側はイギリスに対抗してエジプト人たちが立ち上がるであろうと希望を持っていた。スルタンは敵に対しジハートを宣言するよう勧告していた。さらにTeskelati Mahsusa(オスマン特別組織)の工作員が、扇動しエジプト人組織を作るためにエジプトに送られていた。

オスマン参謀本部は攻撃に備え第8軍団の諸師団をパレスチナ南部ザガ付近に移動させはじめた。エンヴェルは1914年11月初めに攻勢に出るよう望んでいたがお粗末な鉄道システムのせいで遅れた。

攻勢のため用意されたのは第8軍団の4コ師団で、13,000名と8コ砲中隊、これに約1,500名の便衣兵とアラブ人がエジプトで革命を起こすよう任務を帯びて付き従っていた。砂漠を横断するので補給、とくに水は気を付けて準備された。

1915年1月14日、3つの戦術群にわかれて出発し、月の終わりごろには集合地点に着いた。


第1次大戦前、イギリスのエジプト駐屯兵は1コ旅団にすぎなかった。しかし大戦勃発よりイングランドから1コ郷土防衛師団、インド軍の2コ師団がおくられて30,000を算し、さらにアンザックの1コ師団が送られて強大になっていた。

司令官のサー・ジョン・マクスウェル少将はスエズ運河西岸に強力な防御線を構築していた。重要なことに、空中偵察によって簡単に敵軍を探知できた。ただし彼らは主目標がなにかは確証がなかった。

1915年1月31日までに、オスマン軍はイスマイリア東方約10キロの地点にかくれて集結した。

2月2日夜、第25師団の歩兵が運河東岸の突撃地点へと押し出し、2コ歩兵大隊が船舶工兵とともに渡河した。側面援護部隊が陽攻を準備し、そのうえ8コ軽砲中隊が前方へ展開した。しかしボートを持ち出して水に乗りだすオスマン兵は敵によって観測され、観測点から射撃を浴びせかけられた。混乱するなかで2コ中隊が対岸に橋頭堡を打ちたて塹壕を掘りはじめた。火砲支援やほかの師団の渡河試みられたが、イギリス海軍艦艇の艦砲射撃によって無効化されてしまった。

翌日よりインド軍による反撃がくわわり、16時ジェマルは攻撃中止を命令した。攻撃は失敗したが兵員はなんとか退却できた。西岸へ渡った兵は退却援護のため捕虜となるか殺された。船舶はすべて置き捨てられた。

イギリスのエジプト駐屯兵はよく訓練されていたわけではなく、大量に水を運ぶ用意もできていなかった。そのため追撃しなかった。ジェマルの兵は大部分がパレスチナまで逃げ帰ることができた。オスマン軍の戦死192、負傷381、行方不明ないし捕虜727、計約1,300という。

この攻勢とメソポタミアの戦闘で、イギリスはオスマン軍は弱兵との認識を強めるようになる。
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