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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.04.25 (金)
欧州大戦勃発前よりガリポリには精鋭が配置されていた。ガリポリ半島担当の第3軍団は、バルカン戦争で頑強に戦った勇猛兵団である。1914年8月の動員時には戦闘経験者が優先的にガリポリに配属された。動員22日には第3軍団は兵3万、動物7千を数えた。

第3軍団長エサト・パシャはバルカン戦争でヤニヤ軍団長を務め、ギリシャのヨアニア要塞戦で現代陣地戦を体験していた(ヤニヤのギリシャ読みはヨアニアとなる)。半島先端担当の第9師団長はバルカン戦争で第5猟兵連隊長だったハリル・サミ大佐、中部の第19師団長はバルカン戦争でガリポリ軍作戦課長だったムスタファ・ケマル中佐が当てられた。

ケマルがバルカン戦争時に戦闘任務に就いていたことはよく忘れられるし、1913年ガリポリ半島で軍団レベルの作戦将校として働いていたことは一般に知られていない。

対上陸防御計画は基本的にはバルカン戦争時の対ギリシャ軍上陸防御計画が踏襲され、陣地構築もザンデルスが来る前から為されていた。11月8日からは、戦闘計画のリハーサルと対上陸作戦訓練、諸兵科連合訓練も導入された。

ガリポリ上陸作戦におけるオスマン軍対上陸防御の根本骨子は以下の通りである。

「敵の上陸半渡において、これを撃滅する。このため沿岸貼り付け部隊と機動部隊とに部隊を分かつ。機動部隊は沿岸より数キロの地点に位置する。敵上陸せば貼り付け部隊がこれを拒止し、機動部隊が急行して敵を海へ追い落とす」。

1915年3月26日、独リーマン・フォン・ザンデルス将軍が新設の第5軍司令官としてガリポリ半島に到着。彼の回想録によれば、「オスマン軍の配置は奇妙に海岸線に分散配置されており、また敵の強力な攻撃を止めることができる予備隊が不足していた」と非難している。

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オットー・リーマン・フォンザンデルス

実際には、オスマン軍の防備は1915年3月26日のザンデルスの到着前に全く強固になっており、良好なる陣地に配備された予備隊が多数展開していた。1915年3月26日には、即応予備として20コ歩兵大隊がいた。


ガリポリ上陸作戦前の第5軍配備状況は以下のとおり。

・ガリポリ半島
 第3軍団 エサト・パシャ准将
  第7師団 Ahmet Remzi大佐
  第9師団 Halil Sami中佐
  第19師団 ムスタファ・ケマル中佐
・アジア側
 第15軍団 Weber大佐
  第3師団 Nicolai大佐
  第11師団 Refet大佐
・サロス湾
 第5師団 Hasan Basri大佐
 独立騎兵旅団 Hamdi中佐
(※師団長にして佐官、軍団長にしても佐官がいるのは注目に値する)

上陸作戦図

これとは別の指揮系統にチャナッカレ要塞地区司令部が存在していた。

第3軍団はガリポリ半島自体を守り、第7師団が北側海岸、第9師団が南側海岸を監視した。栄光の名を飾ることになる第19師団は軍団予備としてエジェアバトEceabat北方に控置されていた。

アジア河沿岸は第15軍団がこれを守り、第3師団と第11師団が脆弱で平坦な海岸を監視していた。ほかに2コ歩兵連隊がCiplakちかくCalver's Farmに控置されていた。

チャナッカレ地域最北方の第5師団はBulair地峡を守り、独立騎兵旅団はサロス湾の長い海岸に騎兵幕を展開していた。

第5軍司令部はゲリボル市にのこった。Cevat Beyの要塞司令部は堡塁と砲兵の大部分を指揮しつづけていた。

ザンデルスはさらにとくに危険な3つの地区を作戦集団としてわけた。サロス湾地区にvon Sodenstern大佐、アジア側クムカレにWeber大佐、ガリポリ半島にエサト准将である。


 



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