ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.04.13 (日)
img026.jpg
(地図は正確じゃないかも)

1915年1月から3月にかけて、英土両軍の小競り合いがつづいた。スレイマン・ベイはバスラのイギリス軍陣地に対し側面攻撃をくわえんと企図した。クイルナにある敵主陣地を避け局所的な戦力優勢をなさんとしたためである。バスラ方面にはバスラの近接経路シャイバに1コ英軍騎兵旅団がこれを占領していた。

4月初め、スレイマン率いる右翼隊はバスラにむかって進撃した。イギリス側はこれを察知し、防御陣地を構えて待ちかまえた。12日午前5時、シャイバにおいて両軍は激突した。短時間の攻撃準備射撃のあとオスマン歩兵は攻撃をしかけた。攻撃頓挫するも一日中攻撃をつづけ、翌日も実りのすくない攻撃をつづけた。最終的に、イギリス騎兵による反撃によって決着がついた。攻撃に参加したオスマン軍兵士3,800のうち、死傷者1,000、捕虜400、砲の鹵獲2を数えて大敗し、残余は北方に敗走した。

戦果拡張せんとイギリス軍は追撃した。4月14日、オスマン軍の第一線防御陣地が奪取されて大量の死傷者とアラブ兵の大量投降をだし、第二線陣地は降伏した。オスマン軍はさらに120キロ先のKhamisiyahへ敗走していったが、連戦でつかれはてた英軍は追撃を打ち切った。3日間以上にわたる戦闘でオスマン兵約6,000が死傷し、700名以上の投降者をだした。

ここで近代軍隊にあるまじきことを書かねばならない。オスマン軍の敗状をみてアラブ不正規兵は味方を裏切り、落伍兵をころし衣服をうばっていった。現地のアラブ人を信頼していたスレイマン・ベイは自軍の弱兵ぶりと裏切りに耐えられず、ついにみずからの頭を撃ちぬいて死んだ。

これですべてが終わったわけではない。4月中旬、第13軍団の参謀部によりあたらしく第6軍が編成された。オスマン参謀本部はさらに第18軍団を新規編成してメソポタミアに送った。両軍団は1915年後半の戦局を動かすことになる。

img027.jpg

4月下旬、予想外の戦果に気をよくしたインド政府はユーフラテスのアマラおよびチグリスのナッシリエにむけて前進をつづけることを決心した。4月22日、第6師団長バレット将軍はチャールズ・タウンゼント将軍と交代。さらにゴリンジ将軍率いる第12師団を上陸させ、ジョン・ニクソン将軍がメソポタミア遠征軍の司令官に就任した。

5月3日第6師団はアマラを占領、6月には第12師団がナッシリエを占領した。ファズィール・パシャの部隊はさらに北方のクッテル・アマラへと敗走した。これによって、にわかにイギリス本国もメソポタミアに興味を示しはじめた。できればバグダードもとっておきたい。そしてタウンゼントの第6師団は運命のクッテル・アマラへと進撃していったのである。


セルマン・パク会戦へつづく。


Secret

TrackBackURL
→http://hikasuke333.blog113.fc2.com/tb.php/280-84f26c7e