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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.04.04 (金)
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アングロ・ペルシア石油会社の保護を目的として、イギリス軍はメソポタミアへ進攻した。主に担当したのはインド軍で、第6プーナ師団(デラメイン旅団、フレイ旅団)が派遣された。

1914年11月6日、デラメイン旅団はシャトゥルアラブ河口ファオ要塞に上陸。オスマン側は350名と野砲4門しか配置しておらず、短時間のうちにイギリス軍が奪取した。デラメイン旅団は前進をつづけ、7日夕方には北方40キロのサニイエ(Sanyeh)を占領した。13日、おくれて上陸したフレイ旅団と第6師団と合流してバスラをねらった。

スレイマン・アスケリ・ベイ率いる土第38師団(1コ連隊増強)は開戦一か月前よりイギリス軍来襲を予期して準備していた。歩兵4,700、野砲18、機関銃3をもってバスラ付近においてイギリス軍を待ち受けた。バスラ付近において英第6師団と土第38師団が激突し、20日イギリス軍がバスラを占領した。イギリス軍は捕虜1,200名、砲3門を鹵獲し、オスマン軍は大敗した。

イギリス軍の当初の目標バスラは占領されたが、オスマン軍の予想以上の弱さにインド政府は目がくらみ、さらにクイルナへと前進を命じた。政策者のあいまいな意識によりなしくずし的にメソポタミアにおける戦闘は全面衝突へとうつっていく。

12月3日、イギリス軍部隊はクイルナにむかい前進を開始した。オスマン軍との白兵戦を交えつつ戦い、9日クイルナは陥落した。1,000以上の投降者と砲6門をうしなって第38師団はアマラへと敗走していった。

オスマン軍のふがいない戦いぶりにエンヴェルパシャは怒りの色をなし、スレイマンに砲艦で前線へ向かえと勧告した。1915年1月2日、スレイマン・ベイはイラク地区司令部の指揮をとることになった。これとともにオスマン参謀本部はカフカースへ移動中だった第35師団に引き返すよう命じ、同師団は1月はじめよりメソポタミアに到着し始めていた(第35師団が無為に時間を過ごしてしまったことに関し樋口少佐はアホの極みと評している)。

スレイマンは地区防御のため部隊を二つの集団に分けた。右翼集団はユーフラテス川を守るため、再編成された第38師団を主として構成された。該部隊はスレイマンが直接指揮し、ナッシリエへの接近路を防御した。もう一方の左翼集団はバグダードへとつづくチグリス川に構えた。死命を制するこちらにはメフメト・ファズィール・パシャひきいる第35師団が配置され、不正規騎兵と数コアラブ人大隊も配された。



樋口正治『近東に於ける前大戦の考察』
Edward Erickson, Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War
Ron Wilcox, Battles on the Tigris: The Mesopotamian Campaign of the First World War

樋口本とErickson本はこまかなちがいが多い。Wilcox本も勘案しながら、Erickson本のほうが資料性が高いと考え基本的にそちらにしたがう。
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