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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.02.27 (木)
1915年2月下旬、オスマン参謀本部が直面していた最も大きな問題は、第3軍戦区で蔓延したチフスである。なんと新任の第3軍司令官ハック・ベイは、2月12日チフスにかかって死んでしまった。参謀本部は第3軍司令官にザンデルスをとふたたび要請したが、またもや断わられた。

アルメニア人の発起は続いており、Harput、Diyabakir、Bitlisのジャンダルマ大隊はワン市へ送らざるを得なかった。革命の機運があった。Kayseriにおいて後背地でテロリストによる爆破もあった。

第3軍への増援はトラキアから送られた。1914年12月3日、第1軍司令官は増援部隊を送る準備をするよう命令された。増援部隊はメソポタミアを経由してTabrizへ行くよう計画された。第4軍団および第5軍団の優良部隊が引き抜かれた。第37、40、43歩兵連隊、3コ騎兵大隊、2コ機関銃隊、1コ山岳榴弾砲大隊、3コ砲中隊、1コ野戦病院、1コテレグラフ隊、ラクダ200頭、戦争大学より派遣された28名の軍楽員より成るハリル・ベイ師団が編成された。指揮するのはコンスタンティノープル地区指揮官のハリル・ベイである。

12月11日、師団はHaydarpasa駅を発し東へ向かった。15日、エンヴェルは、Tabrizへ行ったあとアゼルバイジャンへ進攻するよう訓令を送った。26日、師団は第5派遣隊と改称され、DiyabakirとBitlis付近へ進出するよう命令された。

1915年1月初め、第5派遣隊はAkcale市街へ到着し、1月11日疲弊した第3軍へ編入された。第3軍へ合流するためここからさらに北進したが線路がなく、極寒のなかを歩くしかなかった。2月2日、疲れはてた部隊がエルズルムへ到着し始めた。多くの将兵がチフスの初期症状を示していた。

ハリル・ベイとその参謀連は2月8日に到着した。翌日、エルズルム南の集合地区へ部隊は移動し始めた。20日集中完了して23日より野戦訓練を始めた。

紙面上では、第5派遣隊は将校248名、兵10,920名を有していた。しかしここまでに、102名が死亡、1,041名が脱落、1,040名が病院送りになっていた。くわえるに、隊に残ったままの病者が2,708名もいた。部隊はあきらかに戦闘可能状態になかった。


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