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ミリタリー | 趣味・実用 | 中東戦線 2014.02.17 (月)
カフカースは峻厳なる土地である。高さ3千メートル以上の山道があり、土地は痩せ乾いている。冬になるや気温マイナス50度にもなり、3ないし4メートル以上の雪が積もった。防勢作戦に理想的な土地である。

オスマン軍の1914年冬カフカース攻勢がなにを意図していたか、今日残っている文書では明らかでない。1878年に失われた土地の奪還だとか、凡トルコ主義に基づく行動だとか言われる。作戦構想初期の目的は、単に、ロシア軍大部隊を撃滅することだった。

オスマン帝国側のカフカース担当部隊は第3軍である。第3軍の占領目標は、国境より約50キロはなれた重要都市で、第2目標は110キロ先の前トルコ都市群であった。

第3軍 ハッサン・イッゼト・パシャ 参謀長Guse中佐
 第9軍団 アフメト・フェヴィジ准将
 第10軍団 ズィーヤ・パシャZiya pasha准将 参謀長Lange大尉
 第11軍団 Galip Pasha准将

バルカン戦争後、エンヴェル・パシャは現代戦に適合しない将校を大量に退役させたために、指揮官は全体的に若返っていた。師団長は佐官が指揮していた。

第3軍所属の軍団はバルカン戦争によって痛めつけられており、開戦時いまだ再建途中にあった。よしんば充足率をあげても部隊の慣熟度いま一つにあった。

カフカースのロシア軍はCount Vorontsov-Dashkovが指揮官であったが、軍人というより行政官であったので、A.Z.Myshlayevskiが代理を務めていた。しかし彼も実戦派というより研究者肌で、指揮官には不適格だった。ただ参謀長のニコライ・ユデーニチは定見のある前線将校だった。


1914年11月2日、開戦と同時に露カフカス軍はオスマン第3軍の根拠地であるエルズルムへと進撃した。国境付近で薄いながらも騎兵幕を展開していたオスマン軍はすぐにこれを知ることができた。オスマン第11軍団は反撃し、さらにオスマン第9軍団も加わってゆっくりと北進していった。11月の終わりまでに戦線は国境からエルズルムに向かって25キロメートルの地点で膠着した。ロシア軍の損害は約7千で、オスマン軍は約1万3千失った。オスマン軍の損害のうち2千8百は脱走者で、これには2人のアルメニア人士官を含んでいる。

12月8日、第3軍に活を入れるため参謀本部員のハーフズ・ハック・ベイ大佐が第3軍副参謀長としてトラブゾンへと到着した。ハック大佐は第3軍参謀長でドイツ人のグーゼ(Guse)中佐へ攻勢計画を策定するよう個人的に指示を与えた。グーゼ中佐は作戦計画を立てたが、あまりに雄大な作戦のため第3軍司令官は難色を示し、第9軍団長も不安を漏らした。

作戦案は、1コ軍団で正面のロシア軍を牽制・抑留し、2コ軍団でもって左翼からロシア軍の背後に回り込むというものである。12月12日、参謀総長エンヴェル・パシャがエルズルムへ到着し、この大規模攻勢作戦の実行を決断した。

エンヴェルは攻勢のためもっと情熱的な指揮官を欲した。そして第9軍団長と第10軍団長は交代させられた。

第9軍団 アフメト・フェヴィジ→イーサン大佐
第10軍団 ズィーヤ・パシャ→ハーフズ・ハック・ベイ大佐

イーサン・パシャはもともと第34師団長である。この2コ軍団は左翼の包囲部隊なのだが、代わった指揮官は作戦次元での経験が少しかあるいはまったくなかった。

1914年11月、第3軍は約15万名を有していた。しかしエルズルム要塞に少なからず兵員を割かれ、ロシア軍との緒戦で兵員多数を失っていた。このため、国境警備大隊やジャンダルマ大隊を編入して増強した。機動作戦のために、第3軍は歩兵75,660、機関銃73、火砲218を準備した。

オスマン軍はロシア軍の戦力をこう判断していた。露サルカミシュ集団は84コ歩兵大隊、約6.5万を有し、36コ騎兵中隊、火砲172を有する。この情報が確かならば、オスマン軍の戦力のほうが若干上回っていた。

じっさいの露カフカース軍は歩兵10万、騎兵1.5万、火砲256を有していた。さらに15万人(1.5万の誤記か)辺境予備役が6コ義勇大隊として訓練途中にあった。


12月22日、オスマン第3軍は攻勢を開始した。ロシア側はこんなにも早く攻勢に出るとは予想だにしていなかったが、前線から野戦司令部に届く報告はオスマン軍の攻撃を示していた。作戦2日目、オスマン軍最左翼の第10軍団はオルトゥを占領してさらに前進、左翼第9軍団は24日までにサルカムシュの郊外に達し、25日夜にはサルカムシュの旧市街に到達した。28日には第10軍団はセリムに歩を進め、サルカムシュとカルスとをつなぐ道路を封鎖した。

ここまで順調な滑り出しを見せたオスマン軍の攻勢であったが、急激な天候の悪化とロシア軍の反撃によって急速に衰えてくる。12月の終わりごろのオスマン第10軍団の記録によると、雪が1.5メートルにまで達し、気温はマイナス26度にまで下がったという。第9及び第10軍団が通った山間部では、さらに気温がマイナス40度にまで下がった。

露カフカス軍司令官代理は情勢を悲観して前線より退避したが、参謀長でこのときロシア第2カフカス軍団を指揮していたニコライ・ユデーニチはあくまでもサルカムシュ固守を決断、現地で指導するとともに部隊をサルカムシュに差し向けるよう指示した。

オスマン軍右翼第11軍団の正面のロシア軍への締め付けは十分ではなく、多数のロシア軍将兵がサルカムシュ防衛のため後退していった。ロシア兵は、オスマン軍がサルカミシュに達するすんでのところで、さきに到着して断続的な攻撃に耐えた。東プロイセンの悲劇とは対照的に、カフカースのロシア軍は状況を踏みあやまらず、効果的な指揮統制を維持しつづけた。土第10軍団の前進を阻止するため、Benli Ahmetへロシア援軍部隊がすみやかに到着中でもあった。

12月29日、エンヴェルは第3軍までおとずれ直接指揮をとった。万難を排して包囲を貫徹すべし、と命令をくだした。しかし、タンネンベルクのようにロシア軍は崩れなかった。北方カルスと南東より新鋭部隊がぞくぞくと集結していった。くわえるに、摩擦と損害によってオスマン師団は痛めつけられて、部隊は疲れ果て、天候は最悪にあった。


新年1915年をむかえ、主導権はロシア側にうつった。土第10軍団側面と第9軍団正面をたたくため大部隊が集結し、1月2日攻撃に出た。包囲するものがいまや、包囲される側となった。

エンヴェル・パシャは第9、10軍団を統括する「左翼」を創設し、ハッキ・ベイを准将に昇進させてこれに当てた。エンヴェルはすみやかな集中指揮がこの状況を救うと信じた。南では、第11軍団が攻撃しつづけたが、執拗な逆襲にさらされた。

1月4日、戦況は破局をむかえた。強烈なロシア軍の圧迫にたえかねてオスマン第9、10軍団は敗走した。絶望的な後退行動で第9軍団は壊滅し、包囲された各師団兵の残余と軍団司令部は降伏した。

1月7日、オスマン軍は全面退却に移った。戦闘と天候によって損害はうなぎ上りとなった。エンヴェルは敗北を悟った。ハッキ・ベイを第3軍司令官、Yusuf Izzetを第10軍団長に当て、1月9日カフカースを去った。

サルカムシュ会戦はロシア軍の勝利でおわった。功績により、露将ユデーニチは露カフカス軍野戦司令官へと昇進した。

本会戦によってオスマン軍は兵約5万人を失った。これはトルコ公刊戦史による数字である。内訳は2万3千が戦死、1万が病院死、7千が捕虜となり、負傷者1万人。英語圏では一般的に戦死9万、捕虜4万から5万と記載されてきた。Cornish(2006),p85ではオスマン軍の損害は7万5千に達し、火砲の大部分を失ったと書かれている。

ロシア軍は死者1万6千人と負傷者及び戦病者(主に凍傷)1万2千人の、計2万8千もの損害を出した。



Ordered to die
The Russian Army and the First World War
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