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中東戦線 2014.02.07 (金)
バルカン戦争がオスマン軍に与えた影響。
1.列強のようなタイムテーブルに沿った動員は、オスマン帝国の交通では不適格。
2.莫大な損害。装備、訓練された指揮官を失い、ドイツ軍事顧問団の影響力が増した。
3.第二軍の12コ常設師団すべてと第一軍師団の多くが壊滅し、再編成に追われた。

1914年4月7日策定された最初の戦役計画では、3つのことを柱にしていた。
1.軍は前線の重要地形を確保しなければならない
2.軍は決勝点に部隊の大部を差し向けなければならない
3.軍は、動員と集中が完結するために十分な時間がとれるよう確実しなければならない。

ordered to dieには、1914年のオスマン帝国は領土奪還の意思をもってなかったので、参戦する意味がなかったと書かれていて(´・ω・`)てなる。

戦役計画では、ギリシアおよびブルガリア正面に大部隊を配置。しかし攻勢は意図しない。ロシアに対しては、戦術的主導権を手に入れるため、限定攻撃を加える。以上を想定していた。


急変する状況に合わせて、1914年8月20日より戦役計画は導入されはじめた。ブルガリアとの秘密条約の締結によってトラキアの緊張は弱まり、ブルガリアと協力してルーマニア、セルビアに備えるよう変わった。ロシアは依然カフカースに大部隊を配置していたが、対独墺戦にいそがしく攻勢の意図はないものと思われた。このことから、オスマン軍側にカフカースにおいて大攻勢をおこなう構想が出始めた。さらに険悪になりつつあったイギリスに対し、エジプトおよびスエズ運河へ攻勢をかける案もあがりはじめた。

1914年9月6日、第一戦役計画は公式に変更された。シリアにおいて、第4軍がエジプトを攻撃。カフカースにおいては、第3軍がアルダハンとバツームの攻勢作戦を策定するよう命令され、同軍はサルカミシュにおいてロシア軍を片翼包囲により撃滅するよう決せられた。

戦役プランの策定したのは、参謀総長第一補佐のBronsart von Schellendorf(ドイツ人)。4月時点の計画に対して、エンヴェルは「我々は思いを一緒にしていると感じる」と書き送っている。



バルカン戦争の痛手によって、オスマン軍は再建途中であった。オスマン帝国は失地回復にあまり興味を持っていなかった。1914年のカフカース攻勢の直接の発起は、東部戦線の動向にあるのだろう。タンネンベルクの戦いでロシア軍は大敗北を喫していた。今がチャンスと思ったのだろう。ただし、1918年のカフカース攻勢は、エンヴェルがトゥラリズムにかられてやった感が強い。



ロシア軍の対土戦計画は見つけることができない。対ドイツ、オーストリア戦に傾注していたとみられる。

イギリスはそもそも大戦争に備えていなかった。メソポタミアへの侵攻はどのような経緯が少し調べたい。ガリポリはいっぱいある。



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