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 本編に長久手の戦いをすでに詳説した。これは大部が「小牧御陣長湫御合戦記」にもとづく記述で、元来の説とは相容れない部分がおおい。いまここに「小牧陣始末記」により長久手合戦を再現して、もって参考に具す。両軍の行動の概略をしめし、差異をとくに記述する。



 小牧対陣中の1584年4月4日。池田勝入父子は主だったものを集めて評議があった。「敵家康は小牧に山にはいり、日々人数を増している。領国の三河・遠江は空になっているだろう。ここに軍隊を進軍させ、討ちとるようにすればどうであろうか。この方法は上方筋では中入り(注1)の手段というものだ」という意見があった。勝入はこれは妙案だと思い、秀吉に提案した。

 秀吉は最初しぶったが、許可した。そしてこう命令した。

 「まず三河筋に行くまえに篠木・柏井に砦をかまえ、かたく備をもうけ、小事にはこだわってはならない。小敵をあなどってはならない。迅速に岡崎に進出して放火し、すみやかに撤退すべし」

 4月6日夜半、池田を主とする別働隊25,000-30,000は楽田を出発した。家康はこの動きを知らなかった。7日10時、別働隊は篠木・柏井に到着した。(注2)同日16時、篠木・柏井の民が家康に注進した。さらに同夜、森隊に潜入していた忍びより報告があり、家康は別働隊撃滅を決意した。曰く、「敵が大中入りをするならば、味方は小中入りの手段をすべし」と。

 4月8日20時、徳川軍先遣隊4,200(一説に3,000)は小牧を出発し、春日井原をへて竜泉寺の下手をとおり小幡城へ入場した。同22時、家康と信雄の本隊は兵12,500をともなって小牧を出発し、勝川をへて9日0時に小幡城へ到着した。軍議のあと先遣隊は小幡を発して稲葉村まで行き、夜が明けるのを待った。本隊は2時に出発し、大森印場―稲葉村―権道寺山の順に大回りした。(注3)

「小牧陣始末記」説長久手合戦ブログ用2!


 8日22時、羽柴軍別働隊は三河・遠江にむけて出発した。夜明けまでに、三好秀次隊は白林山、堀秀政隊は金萩原、池田・森隊は岩崎に到着していた。池田・森隊は9日6時より岩崎城を攻め、8時には陥落させた。

 9日夜明け後、徳川軍先遣隊は三好秀次隊を襲撃し、壊滅させた。追撃するうちに、桧根山までひきかえしてきた堀隊と8時ごろ激突した。堀隊は先遣隊を破りこれを追撃した。そのとき富士ヶ根山にひるがえる家康の馬印をみて、三好隊の残部と堀隊は池田・森隊を見捨てて撤退した。10時ごろ、引きかえしてきた池田・森隊と徳川本隊が仏ヶ根付近で衝突し、徳川軍が大勝を得た。

長久手合戦!




 以上、「小牧陣始末記」を主に観察した。本来は微に入り細を穿つ内容である。くわしすぎてあやしいぐらいである。「小牧御陣長湫御合戦記」とのおおきな違いは以下のとおりである。

1.信雄が出陣しているか否か
2.徳川本隊の移動経路
3.堀隊の去就

 1.は諸書ちがいがあり、参謀本部が信雄の同行を書いているのでひろく敷衍している。「小牧御陣長湫御合戦記」、「三河物語」、「小牧戦話」などは、信雄は小牧残留としている。
 
 2.「小牧陣始末記」は大森印場―稲葉村―権道寺山の大回りを書いている。「小牧御陣長湫御合戦記」も「家康公長久手のうち猪子石原の東南の山へ、9日の暁寅の刻御着陣」と書いており、おおきく東南をとれば権道寺山南付近と解釈も可能だろう。
 しかし、かなりの急行軍となる。『日本戦史 小牧役』は、徳川本隊が小幡―権道寺山北まで11kmを夜間行軍2時間で駈けぬけたとしている。戦国の烈士なら可能だとも思われるが、移動だけでくたくたにならないか。

 3.堀隊が早期撤退したか否かは、長久手合戦物でも意見が分かれている。「小牧御陣長湫御合戦記」は、堀隊が池田隊と合流したあとモブと化しているので、疑問はのこる。







1.「小牧陣始末記」は中入りをこう説明する。「この中入りの手段というは、異国本朝の書に見えず、いにしえより中入りの手段ということなし。織田信長の仕○出して毎度勝利を得る。しかれども家臣らはいずれも中入りの手段をして仕損ず。すでに賤ヶ岳にて柴田が中入りをして敗走す。すれば常体の人のおよばぬ手段なり」。織田信長の戦例のどれが中入りに当たるのか不明である。そもそも中入りの概念自体、戦国期にあったのだろうか。
2.「小牧陣始末記」は、秀吉の命令により別働隊が2日間篠木・柏井に滞留し、これが大いなる誤りであったとする。
3.『日本戦史 小牧役』は夜明けを4時30分ごろとしている。『応用戦術ノ参考』p.252は、新暦5月東京の日の出を4時30分としており、当を得ている。長久手方面では、4時30分から5時までに、夜が明けたと思われる。「小牧陣始末記」はもっとおそい時間を日の出と想定していると思われ、参謀本部は時間を調整している。『日本戦史 小牧役』は、徳川本隊が小幡―権道寺山北までの11kmを夜間行軍2時間で駈けぬけたとしている。なかなかの見物だろう!


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