1583年、柴田一族が滅亡したあと、北陸の前田氏は加賀の石川・河北の二群と能登を有し、となりに領地を接する佐々成政は越中一国を有していた。1584年、小牧の陣となるや、前田氏は秀吉を支持し、佐々も秀吉に同調していた。しかし佐々成政はしだいに織田徳川連合軍のほうになびいていったとみられる。

 8月22日、佐々成政は村井又兵衛隊約1,500をもって加賀越中の朝日山を攻撃し、ここに佐々軍と前田軍とのあいだで戦端がひらかれた。(注1)

 前田利家は金沢城に位置し、また七尾城に兵3,000を置き、津幡城には前田秀継隊100、鳥越城には目賀・丹羽隊500を配し、加賀・能登・越中の三国が境を接する末森城は奥村・千秋・土肥隊1,500が守備していた。佐々成政側は加賀国境の倶利伽羅峠付近の砦に佐々・野々村隊2,000、井波城に菊池隊1,000、守山城に神保隊4,000を配していた。自身は富山城をを拠点としていた。(注2)

 前田利家は秀吉より専守防衛を命ぜられその行動を掣肘された。これを尻目に佐々成政は兵8,000をもって能登に進攻し、9月9日末森城を包囲した。成政自身は城より8キロはなれた坪井山に本陣をかまえた。守兵200名が城外に出撃してきたが、攻め方はこれを全滅させた。

 9日14時、金沢の利家に末森城からの急報がもたらされた。利家は夜までに津幡城に移動し、諸将を招集して軍議をひらいた。老臣は末森城を見捨てて篭城することを進言したが、利家はこれをさえぎり「人は一代、名は末代。いやしくも武士たるもの、名を惜しむべし」と救援の決意はかたかった。

 10日夕暮れ、前田利家隊2,500は、津幡城を出撃した。佐々軍の神保隊4,000はこれを妨害しようとしたが、おくれて利家に追及しようとした前田兵500とぶつかり、目的を果たせなかった。11日早朝までに前田隊は末森城まで到達し、城の正面に対峙する佐々軍に背後から襲いかかった。佐々勢は壊滅的打撃をうけ753名も戦死したという。(注3)

 坪井山の佐々成政は自軍の敗北を知り旗本を立てなおしたが、末森城には前田隊が入り込んでしまっていたため、撤退を開始した。撤退途中に無人の鳥越城を占領して手兵を残置して引いていった。

 これを境に攻守逆転して、前田勢が攻勢に転じたがじきに豪雪となり、両軍の行動は停止した。


 末森城の戦いは小牧陣に連動して起こった戦いだが、別個の会戦として完結してしまっている。8月に丹羽勢が羽柴軍の援軍として東海地域におもむくが、末森城合戦の影響か、しばらくして北陸に帰還している。




 1584年、東国においては北条軍と反北条軍(佐竹、結城、宇都宮ら)が沼尻で激突していた。7月下旬に停戦にいたったあと、北条勢は徳川家康の要請に応えて援軍を準備していた。10月初句には待機状態にはいったが、11月に講和となり、派兵は取りやめになった。








1.6月より佐々成政は前田利家の次男を養子に迎えようとすることで前田氏を欺こうとしたとあるが、いかにも軍記が好みそうな話なので注にとどめる。
2.「末森記」。本文の兵数はすべて末森記にもとづく。
3.「末森記」



参考
岩沢愿彦『前田利家』
「末森記」(『前田利家・利長軍記』)
市村高男『東国の戦国合戦』
齋藤慎一『戦国時代の終焉 「北条の夢」と秀吉の天下統一』


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