四国土佐の国人、長宗我部氏は元親の代に土佐を統一するや、三方より四国を侵食せんとした。織田氏とは親交をかさねていたが、阿波・讃岐の三好氏を圧倒しだすと仲が悪くなり、1581年敵対するにようになった。中国地方の雄、毛利氏も織田氏と敵対していたため、長宗我部氏と和を結んだ。讃岐では協調関係がみられ、伊予では毛利氏の勢力圏であったために長宗我部軍は同方面の進出を中断した。

 本能寺の変のあと、毛利氏は羽柴秀吉と和睦するが、長宗我部氏は敵対したままで、このことは甲申戦役に影響をもたらす。

 1584年天正甲申戦役勃発し、反秀吉であった長宗我部氏は当然ながら織田徳川連合軍に味方した。この時点で、三好氏(十河氏)は阿波では土佐泊、讃岐でも十河城、虎丸城など数拠点を有するのみで追いつめられていた。6月、長宗我部軍は十河城を攻め落とし、十河存保は虎丸城によってさいごの抵抗を試みた。羽柴軍は海上輸送によってこれを援護した。

 伊予では、長宗我部軍がひたたび進攻を開始するが、秀吉との和睦条件でもめる毛利氏は伊予に援軍を送るも積極的行動は起こさなかった。けっきょく、戦役が終わり秀吉の四国征伐が開始されるまで四国は統一されなかった。(注1)

 織田徳川側は長宗我部氏に紀州上陸をさかんに要請していたが、上記のとおり実行不可能であった。淡路の進出口である土佐泊はいまだ落ちず、二方面に戦線をかかえていた。長宗我部軍が羽柴軍の陸戦部隊を牽制・抑留したとは思われない。紀州の黒田・蜂須賀らの留守部隊は、長久手の戦いあと東海地域に転進し、宇喜多の一支隊が守備するようになった。むしろ、東海地域に羽柴軍の大部隊が引き付けられたため、長宗我部軍に利したと考えるべきだろう。





1.四国統一は成らなかったという説をとる。



山本浩樹『西国の戦国合戦』
浅野倫明「小牧・長久手の戦いと長宗我部氏」『長宗我部氏の研究』
山内治朋「毛利氏と長宗我部氏の南伊予介入 ――喜多郡騒乱をめぐる芸土関係――」『四国と戦国社会』
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