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紀伊戦場2!

 紀伊の雑賀・根来らの僧徒は織田信長存命時代これにたびたび反抗し、本能寺の変後にわかに活気づき始めていた。1584年、羽柴秀吉は紀州を制圧せんと3月末を期して準備していた。しかし、3月6日、織田信雄が重臣3人を殺し秀吉に反旗をひるがえすや、東海地域に大兵力を差し向けざるをなくなった。

 紀伊の混成軍隊は、織田徳川に策動し、約23,000をもって和泉に進攻した。支援の水軍約200隻とともに大津城を攻撃したが、守将眞鍋員成によりぎゃくに撃破された。大坂の秀吉が住吉に支隊を派遣するや、紀伊軍は撤退した。

 3月17日、徳川軍酒井忠次隊が森長可隊を羽黒の戦いで撃破した。21日、秀吉は有力なる支隊を残置して美濃に向かい出発した。これに反応し、紀伊軍は一隊を岸和田城へ、もう一隊を小栗街道を北進して堺へ進発させた。

 3月22日、紀伊軍は約10,000をもって岸和田城を攻撃した。岸和田城には中村一氏3,000をはじめ、増援として蜂須賀・黒田ら4,000が入場していた。かれらは出撃して包囲する紀伊軍を撃破した。堺へ向かった紀伊軍部隊がとって返して堂ヶ池付近で羽柴軍部隊と激突したが、北方大坂より南進してきた羽柴軍部隊に背後を突かれるや敗走した。

 この後、紀伊軍の混成軍隊は貝塚・佐野のあいだに砦を多数構築して、対陣にうつった。羽柴軍も積極的な行動はおこさなかった。4月9日の長久手合戦ののち、蜂須賀・黒田ら多数の兵が東海戦場に転進していった。

 紀伊軍は積極的に牽制・抑留しなかった。もとより織田徳川連合軍の傘下にある軍隊ではないからムリに攻撃を仕掛ける必要はないのだ。その働きはひくいとみざるを得ない。




参考文献
参謀本部編『日本古戦史講話集』
谷口央「小牧・長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」(『小牧・長久手の戦いの構造』)
 
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