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 一連の記事の目的は、ひたすら軍事行動をおうことにある。簡潔に開戦原因を記し、すみやかに両軍の作戦開始を述べる。


 1582年山崎の戦いで明智光秀を討ちとった羽柴秀吉は、織田家中で優位になった。清洲会議において、三法師が織田家家督をつぐことが了承され、これを4人の宿老、すなわち柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉が補佐した。さらに織田信雄、織田信孝、徳川家康がこれに加わった。清洲会議に不満をもつ柴田勝家・織田信孝・滝川一益らが秀吉に挑戦し、賤ヶ岳の戦いがおこった。秀吉はこの戦いに大勝し、織田信雄を織田家筆頭にしつつも、みずからの優位性を諸国にアピールしはじめた。

 いっぽうの徳川家康は本能寺の変で秀吉におくれをとり、かわりに甲斐・信濃へと進攻した。北条軍と衝突するも講和したのち甲斐と信濃の大部分を占領し、織田家からも追認された。本能寺の変後も「織田体制」に属した家康は、北条氏をつうじて東国の交戦停止を承諾させ、織田体制で優位に立とうした。しかし、東国の北条氏と反北条氏の抗争ははげしさをますばかりで、1584年には沼尻の戦いが生起している。ここにいたるや、織田家家中で影響力の増す秀吉に屈服するか、戦いを挑むか、二つに一つである。家康は後者をえらんだ。

 家康は1584年にはいってから秀吉との戦争を準備しはじめていたと思われ、おなじく秀吉を脅威に思う織田信雄と手を組んだ。秀吉は織田信雄の家臣たちからつぎつぎに人質をとり、戦わずしてじょじょに信雄を屈服させようとしていた。

 1584年3月6日、秀吉とつうじていると思われる三重臣を信雄は殺した。3月末の紀州制圧にむけて準備中であった秀吉は激怒し、伊勢・尾張方面へ動員を開始した。開戦である。




 戦役勃発時点で、羽柴秀吉は約628万石有していた。かりに1万石に兵士250人動員可能と計算すれば、総数157,000人である。(注1)
 織田信雄は約107万石で、おなじように計算すれば、26,750人動員可能である。徳川家康は約137万石で、兵34,500人ということになる。二者あわせて245万石、計61,250人を算した。(注2)
 
 しかし、両軍の軍隊すべてが東海地域に投入されたわけではない。他方面の防衛部隊が必要であるし、近代以前の兵站能力では一ヶ所に人が集まりすぎると処理できなくなる。考えるに、小牧付近において、羽柴軍60,000、織田徳川連合軍16,000-30,000が集中したと思われる。小牧以外の尾張地域、伊勢でも軍勢がひしめき、こちらでは羽柴軍が圧倒的兵力優勢をもっていたとみられる。




主決戦方面

 1584年3月6日、織田信雄は3人の重臣を弑するや、その居城である星崎城、松ヶ島城、苅安賀城へ事前の予定どおりを軍隊を派遣させた。松ヶ島城は滝川雄利隊約3,000が数日中に陥落させた。苅安賀城へも信雄の軍勢が派遣され、すみやかに陥落させた。星崎城は徳川の部隊が3月17日攻めおとした。

 信雄傘下にある織田信包、関盛信、九鬼嘉隆らは、羽柴方に立った。蒲生氏郷を主とする羽柴軍部隊は近江より東進して亀山の関盛信と合流した。また別に、近江を経由して美濃から南進して信雄の居城である長島城をねらうべく大部隊が集結中であった。交戦地域は亀山と長島北部と想定され、両軍ともに伊勢にて決戦するつもりでいた。
 
 徳川家康は開戦3日前の3月3日、三河・遠江に徳政令を発令していた。7日、先陣の酒井忠次隊が岡崎より矢田川沿いまで進軍し、13日に津島、14日に桑名に到着している。別の徳川軍部隊は、上に述べたとおり星崎城を包囲した。

 伊勢での決戦に向けて織田信雄も、佐久間正勝・中川定成隊を亀山に進発させた。両隊は関で蒲生氏郷隊と交戦状態にはいった。


 ここで当初の想定を根底からくつがえす事件がおこる。信雄がとうぜん味方につくと思っていた池田氏が、秀吉側についたのである。3月13日、美濃・尾張国境を領地とする池田氏は主である中川定成のいなくなった犬山城を占拠し、尾張北部に橋頭堡を打ち立てた。15日には、池田勝入・森長可隊は小牧付近を放火してまわった。

 徳川家康は桑名の酒井隊を尾張北部へ転進させ、みずからの本隊も小牧山を占領して羽柴軍に備えた。信雄も小牧山に進出し、佐久間正勝・中川定成隊は撤退させた。峰城、神戸城は羽柴軍によって落とされ、滝川雄利がまもる松ヶ島城も蒲生氏郷隊が包囲した。松ヶ島城には羽柴軍数万がひしめき、九鬼水軍によって海上も封鎖された。

 
 織田徳川連合軍は伊勢の過半を占領されてしまった。三河を脅威された徳川軍は小牧に軍隊を集中せざるを得ず、伊勢は捨て置きにされてしまった。








1.『日本戦史 小牧役』pp.6-7
2.『日本戦史 小牧役』pp.9-11



参考文献
参謀本部編『日本戦史 小牧役』
長久手町史編さん委員会『長久手町史 史料編六 長久手合戦史料集』
谷口央「小牧・長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」(『小牧・長久手の戦いの構造』)
谷口央「小牧長久手の戦い前の徳川・羽柴氏の関係」(『人文学報』445号)
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