長久手の戦いで敗退した秀吉は、あらたな陣立書を作成した。計40,190名を算している。(注1)4月中にまた陣立書が作成され、61,500名と増強されている。(注2)

 秀吉は長久手の戦い直後より木曽川筋の城への攻撃を準備していた。尾張北部の城を攻略せんとすることで、織田徳川連合軍に後詰決戦を求めようとしたためである。

 4月21日までに羽柴軍は木曽川筋をくだり、今尾・松ノ木で小競り合いをくりかえした。5月4日、羽柴秀勝軍が加賀野井城の攻撃を開始した。7日、守兵2,000のまもる加賀野井城を攻めおとし、さらに奥城を攻撃して9日に陥落させた。

 5月10日、秀吉も合流した羽柴軍は竹鼻城を包囲した。12日、竹鼻城付近に多数付城を築き、15日にはさらに10箇所付城を築いている。おなじく15日より木曽川の水を流入させ、竹鼻城を水攻めにした。城方は織田信雄になんども援軍を要求したが、連合軍の反応はにぶかった。一ヶ月にもおよぶ篭城のすえ、6月10日、竹鼻城は降伏した。


 加賀野井城と奥城の兵士は見せしめのためほとんど皆殺しにされ、竹鼻城の窮状をみても連合軍はうごかなかった。下手に手出しすれば羽柴軍に決戦を挑まれるのがわかっていたのだろう。竹鼻城を落としてから、秀吉は大坂へと帰還し始めた。木曽川筋の羽柴軍も6月20日あたりまで今尾・松ノ木を攻撃していたが、秀吉の帰還にともない小牧にしりぞいていった。

 6月12日、緊張がよわまったとみたか、家康は小牧を酒井忠次にまかせ、自身は清洲城にうつった。危機はさったが、土地はうしなわれた。このことはジリジリと信雄を追い詰めていくのである。








1.『長久手合戦史料集』pp.156-7
2.『長久手合戦史料集』pp.161-3
Secret

TrackBackURL
→http://hikasuke333.blog113.fc2.com/tb.php/254-de7b76cc