蟹江城の戦い!


 徳川家康は、蟹江に海賊衆も呼びよせた。4月に長久手の戦いと連動して九鬼水軍が三河を襲撃していらい、小浜景隆・間宮信高を主とする徳川水軍が伊勢湾に進出していた。5月始めには、南伊勢の生津・村松を襲撃している。また、星崎城の大野氏が没落してから、知多半島の海賊衆である千賀氏も織田徳川連合軍にしたがうようになっていた。これらのため、伊勢湾一帯の制海権は遊動下にあった。(注1)

6月18日、織田徳川連合軍は前田城と下市場城を包囲した。参照本に記載がないのでわからないが、連合軍は長久手の戦いとおなじく兵10,000前後と思われる。城方はこれよりずっとすくないだろう。下市場城へは14時ごろに到着し、20時に攻めおとした。(注2)城主、前田長俊は戦死した。

 おなじく6月18日夜、下市場城付近の海域で大規模な海戦がおこった。徳川水軍は間宮信高が戦死するも、九鬼水軍は兵船多数拿捕され滝川一益の馬印が奪われてしまうという大打撃をうけた。(注3)これにより、制海権は連合軍側がにぎったと思われる。

 6月20日、連合軍は蟹江城を包囲した。陣容は、東に徳川家康、西南は織田信雄で、佐久間正勝・山口重政をもって先手とした。攻め方は昼夜問わず城を銃撃した。22日夕方、山口重政隊は独断、城の西より攻め入って三の丸を占領した。

 23日には、前田城が降伏した。この間、家康・信雄ともに書状で「蟹江はすぐに落とす、明日にも落とす」と書き送っている。(注4)そうとうあせっていたと思われる。

 海上封鎖により十分な物資を運びきれていなかったのであろう、7月3日ついに蟹江城は降伏した。前田長定は切腹(注5)し、滝川一益は退去した。

 連合軍は羽柴軍の反応がにぶいことをいいことに、7月5日そのまま伊勢筋へ進攻した。9日、滝川がいないくなった神戸城を攻撃。信雄は10日、滝川雄利がまもる浜田城を普請した。このころ、包囲篭城中の戸木城木造氏へ物資の海上輸送が計画されたが、悪天候のため中止された。

 7月13日、連合軍は尾張に撤退。信雄は長島城に、家康は清洲城に帰還した。

 

 不思議でならないのは秀吉の動向である。客将身分の滝川一益が独断で蟹江城を占拠したであろうことはわかるが、6月16日以後も羽柴軍は呼応せず、秀吉は大坂にかえってしまっている。絶好の攻撃の機会であったにちがいないのに。谷口央は、木曽川筋の戦いで連合軍が後詰決戦してこなかったことで秀吉は決戦の意思をなくした、としているがどうであろうか。(注6)羽柴軍による伊勢侵食はこの後もつづくので、ムリに決戦せずともだんだんと領地を占領していけば勝てるとでも思っていたのかもしれない。








1.小川雄「織田政権の海上軍事と九鬼嘉隆」、同「徳川氏の海上軍事と知多千賀氏」。
2.「家忠日記」の6月19日条に「昨日戌刻に下嶋城責崩」あるので、18日に落城したと断定する。また、「尾州表一戦記」は落城時間を22時とする。
3.「家忠日記」、「勢州軍記」。
4.白峰旬「小牧・長久手の戦いに関する時系列データベース」
5.「家忠日記」、「尾州表一戦記」。「山口家伝」は、滝川が前田父子の首を切って提出したとしている。
6.谷口央「小牧・長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」。郷土史家の武田茂敬は、6月25日付の書状より、7月15日に羽柴軍は尾張進撃を予定していた、とする。




参考文献
長久手町史編さん委員会『長久手町史 史料編六 長久手合戦史料集』
武田茂敬『蟹江城合戦物語』
白峰旬「小牧・長久手の戦いに関する時系列データベース」(『小牧・長久手の戦いの構造』)
谷口央「小牧・長久手の戦いから見た大規模戦争の創出」(同上)
小川雄「織田政権の海上軍事と九鬼嘉隆」(『海事史研究』69号、2012年)
同上「徳川氏の海上軍事と知多千賀氏」(『戦国史研究』62号、2011年)
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