せっかく買った武田茂敬『蟹江城合戦物語』は信用ならんので、やっぱり『長久手合戦史料集』から漁ることになった。「ミスミス虚言と知られたことを基礎として研究するんでは、あまりに馬鹿馬鹿しい次第ではないか」との林部與吉中佐の声が聞こえるのだ!

 例によって「小牧陣始末記」系列は使わない。「家忠日記」、「尾州表一戦記」、「勢州軍記」、「山口家伝」を主に参考とする。「山口家伝」はちょっと怪しい気もする。「丹羽家軍功録」は後世に書いた感ありありと見えるので、参考にならない。

 ずいぶん素っ気なくなるが、ほとんど『太平記』一本の南北朝よりマシ。なんか味気ないなあと思う方は『蟹江城合戦物語』を読まれたし。



 1584年6月、羽柴秀吉軍は木曽川筋の竹鼻城を攻撃していた。竹鼻城を落としたのち、秀吉は事前の計画とおり大阪帰城に実行にうつした。羽柴軍はそのまま20日までに松ノ木城にせまったが、秀吉の帰城にともない楽田に引きかえした。12日に家康は小牧から清洲へうつり、15日、秀吉は大垣まで引きあげていた。信雄は長島在城。

 このとき羽柴軍の老将、滝川一益は内応により蟹江城を奪取せんと計画していた。滝川は、昨年の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敵対し敗れて蟄居していたが、勝手しったる伊勢が戦場になったことにより羽柴軍将として参戦していた。目標となったのは蟹江城で、城の一武将であった前田長定に内応を持ちかけた。長定は一益と縁戚関係でもある。

 6月12日、おりしも蟹江城主佐久間正勝は伊勢萱生砦の補修を命ぜられ、留守にしていた。絶好の機会であると滝川一益は九鬼嘉隆と手をくみ、兵2,000(注1)をもって蟹江城へ海上機動を企図した。6月15日、滝川・九鬼水軍は伊勢を出航した。

蟹江城の戦い!


 蟹江城は西の長島城(織田信雄)、東の清洲城を(徳川家康)をちょうど分断する位置にあった。周辺には、前田長種のまもる前田城、前田長俊のまもる下市場城、山口重政のまもる大野城がある。大野城以外では内応の話がついていたが、一族でない大野城の山口重政には知らされていなかった。前田長定も蟹江城二の丸守備で、本丸は佐久間正勝の叔父である佐久間信辰が守備していた。信辰もまた内応のことは知らなかった。

 6月16日朝、滝川・九鬼隊は蟹江湾にすがたをあらわし、つぎつぎと蟹江城へと入場していった。本丸守備の佐久間信辰はこれをみて激怒し、城中に火をはなって正勝の妻子を殺そうとした。前田長定も滝川一益もおおいにおどろき、しきりに詫びごとを言ったが、信辰は聞かなかった。前田長定の次男を人質とし、ようやく信辰は城をでた。

 大野城の山口重政は「さる情報によると、伊勢浦の海上に兵船多数という。海上に注意すべし」との佐久間正勝の命令を受けていた。6月16日早朝、重政は大野をでて萱生へ偵察に出発。するといかしえの辺(注2)にいたるころ、大野より重政の家臣がやってきて「前田長定の謀反です」と言った。おどろいた重政はいそぎ居城にかえり、合戦の準備をした。さらに城兵が少なかったために、長島城の織田信雄、清洲城の徳川家康などに援軍を要求した。

 前田の使者が山口重政のところにやってきて寝返りをすすめたが、母が蟹江城にいるにもかかわらず重政は拒否した。蟹江城から落ちのびてきた者もおり、かれらは大野城に収容された。しばらくののち、10艘の敵船が海上より大野川に向かって、城下にやってきた。城兵はしきりに松明をなげて、2隻を炎上させた。たまらず陸に這いでてきたところに、山口隊が城内より出撃してこれを撃破した。ほかの船はこれをみると撤退していった。



 すこし時間をもどる。滝川の兵が半数ほど蟹江城へ入場したころ、あたりで火があがった。清須の徳川家康は「蟹江で失火」との報告に不審を感じ、山口重政からの報告を聞くやいそぎ出陣し、松葉の宿に着陣。翌17日、軍勢を戸田へうつし、山口重政から直接戦況を聞いた。長島の織田信雄も変事をきいて、蟹江へと急進してきた。
 







1.「勢州軍記」
2.「山口家伝」。位置不明。


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