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昨日で終わらんかった(´・_・`)

今日で決着つける(´・_・`)



 羽柴秀吉は、4月9日12時ごろ、「池田勝入父子、森長可討ち死ににて、先手おおかた討たれ敗軍の由」との凶報を受けとった。すぐに早貝を吹かせ、秀吉本隊(約30,000か)は備十六段にかまえて長久手へと急行した。小牧留守の本多忠勝は兵わずか500をもって出撃し、これを妨害せんとした。

長久手合戦ブログ用5!

 徳川本隊は竜泉寺付近の砂川まで追撃したあと、砂川より1.1kmはなれた地点で集結中にあった。(注1)すると竜泉寺のほうに金のひょうたんの印がみえ、ここから1kmも詰め寄ったならば今にもいくさが始まりそうな気配であった。榊原康政は秀吉本隊と決戦せんと進言したが、家康は「勝ちに勝ちは重ならぬものだ、小幡城にひきあげる」と言い、徳川軍は小幡城に入場した。

 竜泉寺に到着した秀吉は長久手合戦の詳細をきき、「勝入・長可に、敵をあなどるな、上方の敵をあしらうのと家康とはちがう。まはら掛け(注2)はダメだと再三言ったのに、無用心にもこのような結果になってしまうとは残念だ。小幡に取りかかり勝入父子・長可の無念を果たそう」と言った。これは「もはや日も暮れ、家康も勝って甲の緒をしめて、いっこうに取り合いますまい。柏井まで引き取りましょう」と諸将に言われ、中止となった。羽柴軍は竜泉寺に火をはなって後退した。

 徳川本隊は夜半、小幡を出発し小牧に帰投した。羽柴軍も竜泉寺に警戒部隊をのこし、柏井で夜を明かしたが、徳川軍が転進したときいて羽柴本隊も楽田に帰投した。





 合戦まえの羽柴軍の状況を書きわすれたので、陸戦史集の朝鮮戦争よろしく、敵軍行動としてまとめて記す。

 東西両軍が集中するや、戦線停滞しいわゆる小牧の対陣と呼ばれる状況となった。秀吉はこれを打開するため、東の備を中心としてこれに堀秀政隊を付して三河進攻を計画した。その別働隊の陣容は以下のとおりである。

  一番隊 池田勝入 兵6,000
  二番隊 森長可  兵3,000
  三番隊 堀秀政  兵3,000
  四番隊 三好秀次 兵8,000(注3)

 4月6日に別働隊を小幡に向けて出発させ、竜泉寺を根城に付近を放火したあと、三河に侵入する手はずであった。また、九鬼水軍も呼びよせて、三河を襲撃させようとした。(注4)

 4月6日夜半、羽柴軍別働隊は楽田を出発。竜泉寺を経由して、8日夜から9日早朝にかけて長久手方面を通過中であった。ここで徳川軍の神速の攻撃によって、メチャクチャにやられてしまうのである。





 結論
 以前書いた記事で、秀吉の作戦構想は推定した。つまり、別働隊を三河にさしむけてこれを脅威し、徳川軍が反応して陣外に出撃してきたところで、秀吉本隊が決戦を強要しようとしたというものである。

 これは前年に行なわれた賤ヶ岳の戦いの、"我が軍の分散ー敵の分散ー我が軍の集中"という手法そのままである。長久手の戦いで失敗した理由は2つ考えられる。一つは、尾張・三河の住民が織田徳川連合軍に好意的であったことである。これがために、連合軍はいちはやく情報を収集することができた。二つ目は、徳川軍の精強さである。別働隊は予期せざるスピートで迎撃をうけた。徳川軍の作戦のテンポは、羽柴軍のそれを上回っていたのである。

 しかしいくさはこれで終わらなかった。第一会戦で終結せず、半年にもおよぶ戦役へと発展するのである。

 









1.昨日書いた砂川の位置の認識が間違っていたかもしれない。
2.どういう意味かわからない。
3.参謀本部(1908年/1978年復刻)p,25
4.『長久手合戦史料集』p.40、書状100の秀吉から丹羽長秀への書状より。九鬼水軍は実際に行動しており、4月17日ごろに渥美半島の吉胡・和地が襲撃されたとの記録が残っている(小川雄「織田政権の海上軍事と九鬼嘉隆」p.13)         





    
ちなみに「小牧御陣長湫御合戦記」では、織田信雄は小牧留守になっている。




  
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