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えーっと、終わんなかったので続き(;´д`)



 三好秀次隊が徳川軍先遣隊によって壊滅させられていたころ。最南の池田勝入隊は三河国境の岩崎城を強襲し、一気に攻め落とした。300ともいわれる城内守備隊は玉砕した。

 堀秀政隊は、岩崎の北の山寄り(注1)に備を立てていたが、長谷川隊および三好隊敗走の報に接する。一揆にでも襲われたのかと訝しながら、堀秀政は前を行く森隊に通報した。森長可もおどろいてすぐに池田隊に通報し、両隊は長久手方面に引きかえしはじめた。

 堀秀政隊は山の尾崎を占領し準備した。足軽大将たちを呼集し、堀秀政は言った。

 「味方は負けたのだろう。敵はまもなく味方を追ってやってくる。十間(約20m)より内に引きよせて撃て。馬上兵を一人撃ち落とした者には100石加増する」

長久手合戦ブログ用3!


 徳川軍先遣隊は、三好・長谷川隊を長追いするうちに、堀秀政隊が二段に備え、そのつぎに森長可隊、最後に池田勝入隊がだんだんと押し続いてやってきているのを発見した。流れを止めることができず、先遣隊はそのまま堀隊に突っこんで一斉射撃をあびた。すぐに堀隊は突撃して、徳川軍を逆に追い散らした。堀隊は勝ちに乗じて追撃し、森・池田隊もこれにつづいた。徳川軍先遣隊の死者280余名ともいう。(注2)
 



 ここで少し時間をもどし、徳川軍本隊の動向をみる。4月8日20時、徳川本隊は小牧山を出発し、先遣隊のあとを追って行軍した。勝川をとおって、4月9日4時までに、猪子石の東南の山へ着陣していた。(注3)この間、先遣隊から敵軍情報が報告されているはずである。岩崎城のほうから騒音が聞こえるや行軍準備し、先遣隊戦闘開始の音が聞こえるや具足を着て合戦準備した。いざ、長久手目指して急行軍というところで、先遣隊戦勝を報をえた。徳川本隊は井伊直政隊3,000を前衛にしていそぎ、先遣隊敗報を聞くや、さらにいそいだ。(注4)

 堀隊が徳川軍先遣隊を追撃しているちょうどそのときである。井伊直政の赤備の武者3,000余が、山陰より押しだした。井伊隊は山の腰を廻しかかり、堀隊先手はこれにおどろき北の山へ引きあがり、南向きにかまえた。(注4)つづいて家康本隊の扇の印が山陰より朝日の出るごとく進み出るや、羽柴軍の諸隊は驚愕と戦慄につつまれた。

長久手合戦ブログ用4!

 羽柴軍別働隊は向かいの山に陣をかまえ、徳川本隊と対峙した。家康は十数人を連れて立ち会っていたが、10人の鉄砲頭が言うには「右の山の腰を占領し、500人の鉄砲をもって撃ちたてるべきです」と。敵は家康の馬印をみて興をさまし動揺しているとみた安藤直次は、反対してこう言った。「右の尾崎より鉄砲を撃つより、左の尾崎より撃つほうが有効でしょう」。家康はこれに同意し、鉄砲30-40名を招致して、山へ登らせ森隊を攻撃させた。

 撃ちたてられて怒った森長可は「あれを追いたてろ」と命令し、みずからも槍をとって乗り込もうとした。ちょうどそのとき、水野正重の足軽、杉山源六が放った弾丸が森長可の眉間をつらぬいた。森長可は落馬し、馬廻りが走りよって抱えられた。森隊は大混乱におちいった。池田勝入も采をふり声のかぎり命令したが、鉄砲はげしく容易に進めなかった。数名の侍の激突のあと、またにらみ合いとなる。このとき、山の尾崎より水野太郎作ただ一騎をもって森の備に突撃した。そして、おくれじと侍どもが次々と突撃していった。さらに堀・池田隊へも武士のユニットが乗り込んでいき、羽柴軍別働隊は総崩れとなった。

 森長可戦死、池田勝入戦死、大将をうしなった敗兵はクモの子を散らすように楽田のほうへ敗走していった。徳川軍はこれを追撃し、竜泉寺の南方1.1kmの砂川(注5)というところで打ちきって、集結しはじめた。羽柴軍の死者6,500余とも13,500とも言われる。(注6)












1.別系統の長久手合戦ものは金萩原にいたとするが、「小牧御陣長湫御合戦記」では正確な位置はわからない。どこそこの山にいたか一々覚えていられるか、とイタコを介してあの世から言われればそれまでである。たしかにそうだ、と思うほかない。
2.「小牧御陣長湫御合戦記」
3.「小牧御陣長湫御合戦記」は「4月9日4時までに、猪子石の東南の山へ到着し……勝川というところで夜が明けた」と意味不明な文を載せている。勝川は猪子石の西北にあり、さらに長久手への経過を考えると勝川→猪子石をとおるばずである。「小牧戦話」にしたがい、「夜に勝川をとおり、4月9日4時までに、猪子石の東南の山へ着陣した」とみる。
4.「小牧御陣長湫御合戦記」からだから、方角は信頼できない。位置特定できず。
5.「小牧御陣長湫御合戦記」は"竜泉寺の北方1.1km"とするが、これだと救援にきた秀吉本隊と激突してしまう。南方とするほうが自然。砂川の位置は不明。
6.「小牧御陣長湫御合戦記」。かりに戦死6,500とし、実際は3分の1と考えて、『日本の軍事革命」p.122に則して戦死者と負傷者の比率を一対二で割り出すならば、死傷者6,500なる。
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