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 小牧・長久手の戦いを調べるにあたり、『日本戦史 小牧役』とあと少々読めば納得できるだろうと思っていた。しかしその考えは『長久手合戦史料集』によって粉砕されてしまった。日本戦史は主に参考にしたと思われるのは「小牧陣始末記」であり、この書は江戸中期に書かれ明治になって刊行されたという引っかかりのある本である。

 今回主に参考にしたのは、『長久手合戦史料集』が信頼性が高いとする「小牧御陣長湫御合戦記」である。これに「尾州表一戦記」、「小牧戦話」などによって補った。「小牧御陣長湫御合戦記」に従うなら、従来の合戦の経過とはがらりと変わる。しかしこの書も位置関係に乏しく、『日本戦史 小牧役』の付図をもとに想像せざるをなくなった部分も多い。要するに、よくわからないのである。また別に日本戦史通りの経過も書いてみたいと思う。



「攻勢に巧みな者は、あたかも九天の空から一気に襲いかかるかのような行動をする」
杉之尾宜生訳『孫子』p.50


 当初、戦役勃発するや東西両軍は伊勢を主決戦方面と認識していた。これは池田勢の、羽柴軍への鞍替えによってくつがえってしまう。羽柴軍は尾張北部に橋頭堡を打ちたて、三河方面を脅威されるかもしれぬ徳川軍は小牧へと転進せざるを得なくなった。羽黒の戦いで森隊を撃破したものの、羽柴軍が主力約60,000をもって小牧付近に集中し、織田徳川連合軍(16,000-30,000)は守勢に立たされた。連合軍が小牧一帯に陣地帯を構築するや、羽柴軍も容易に手出しできず、対峙がながくつづいた。いわゆる、小牧の対陣である。

 1584年4月3日ないし4日、三河岡崎の町人が徳川軍内をおとずれ、「近日中に岡崎へ敵が中入りすると騒動になっています」と告げた。(注1)これはすぐに小牧山の家康へと報告され、真偽つかぬ家康は忍びを放ち、さらなる情報収集を図った。そして忍び曰く「池田勝入を大将にして岡崎に進攻する企てなり」と。

 4月8日のまだ夜の明けるまえ、楽田あたりで放火がみえ、家康は明日合戦があるであろうと確信した。正午に、「大須賀康高、榊原康政、水野忠重、水野勝成、本田康高、丹羽氏次、松平家信からなる先遣隊4,500は夜半先んじてに出陣すべし」との命令を下した。

長久手合戦ブログ用1!


 日没後、徳川軍先遣隊は小牧より出撃し、4月9日0時ごろ小幡城に到着した。そして、斥候50人を選抜して竜泉寺方面を偵察させた。羽柴軍別働隊はこの動きをしらなかった。先遣隊の斥候曰く、

 「一陣に池田勝入・同恒興12,000、二陣に森長可5,000余、三陣堀秀政9,000余、四陣長谷川秀一1,000、五陣三好秀次16,000。都合44,000余にて龍泉寺坂をくだり、長久手原を進撃中」

 この報告をもとに、先遣隊は夜明け前より城外に出て出撃準備した。(注2)

 4月9日夜明け(4時30分ごろか)、徳川軍先遣隊は小幡村より出撃した。このとき、羽柴軍別働隊の最後尾、三好秀次隊5,000は三河路をだんだんと行軍していた。すると、北のほう小幡村より(注3)敵味方わからぬ部隊、700-800とも見える一備が、浮雲が山のはしを出るように向かって来る。三好秀次は馬を止めて不審がり、三好隊もみな不審がった。つづいてまた一つ備が出、彼我4kmも離れていたため(注4)、遠見した。穂坂秀次が三好秀次に言うには、「ただいま小幡村を出てきた備は、事を持たる敵なり。ご覚悟あれ」。穂坂秀次の言ううちに、また小幡村より続いて出撃してきた。正体不明の軍隊の先頭は三好隊に近づくや横隊となり、小荷駄に襲いかかってきた。

長久手合戦ブログ用2!

 襲撃してくる部隊の旗先を見るに、車の輪の紋、永楽銭である。さては徳川家康の軍勢なりと、三好隊は大混乱におちいった。大将の三好秀次はこれを見、「これほどに隠してあった部隊なら、小牧の家康ではない。また小幡城にこれほどの軍勢はいまい。とにかくただごとではない。備を立てなおせ」と命令した。

 三好隊は弓鉄砲で応戦するが、徳川軍先遣隊はものともせず真っ黒になって襲いかかった。三好隊の先手、田中長正隊は戦わないうちに恐慌状態となり備をくずし、秀次の旗本さえ危なくなった。大須賀、榊原、本田の諸隊が急進してきて鉄砲さえ撃ちかねるほどであったために、秀次を助けようと長谷川秀一隊も備を崩して救援しにきた。そこを丹羽、水野隊が猛射して返り討ちにし、三好隊、長谷川隊は前後ひとつとなって敗走した。

 本田康高は「大敵は長追いせぬものぞ、追い止めよ」というも、大須賀隊、榊原隊はこれを聞かず追撃を続行し、丹羽氏次も松平家信も制しかね、ともにつづいて追撃した。その追うこと一里とも三里ともいう(一里は約4km)。








1.「小牧御陣長湫御合戦記」。『長久手合戦史料集』収録の秀吉の書簡から、秀吉が前々から三河進攻を考えていたとも解釈でき、それに従うならこれも不自然ではない。 
2.「小牧御陣長湫御合戦記」は9日8時に出撃したとするが、不自然であるし時系列も合わないので「尾州表一戦記」に従う。
3.「小牧御陣長湫御合戦記」は「南の方小幡村より」とするが、小幡村の北は竜泉寺方面であり矛盾する。
4.通常行軍で1時間。よって、もっと近かったかもしれない。すぐに三好隊は壊乱状態におちいるが、行軍状態から戦闘隊形に移行するのは時間がかかったのだろうか。

参考
長久手町史編さん委員会『長久手町史 史料編六 長久手合戦史料集』長久手町役場、1992年
参謀本部編『日本戦史 小牧役』村田書店、1908年/1978年復刻





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