長久手の戦い以後の伊勢方面の戦いを述べる。

戸木城戦1


 南伊勢に孤立する木造氏は木造具康が戸木城、息子の具政が木造城にたてこもっていた。少数の兵でこもっていても羽柴の大軍を拒止するのは難しいと具政が説き、具康は同意して戸木城に合流することになった。主のいなくなった木造城は、滝川一益が占領した。

 4月12日、秀吉は戸木城を攻撃するため付城を4つ普請するよう指令を出している。(注1)織田信包を中心とした支隊は東西南北より戸木城を包囲し、付城を築き始めた。戸木城の北の山上には支城として宮山城があり、あたり一帯を瞰制できた。5月20日、織田信包隊はここを攻め落とし、戸木城包囲網の本陣とした。

戸木城戦、略図1

 4月下旬、包囲篭城中の松ヶ島城が降伏した。守将の滝川雄利は逃れてのち、伊勢北部の浜田城に配された。

 5月、松ヶ島より転戦してきた蒲生氏郷隊は、戸木城ちかくの牧城を攻め落とした。川方城にもせまったが、戸木城より多数の援軍を入れていたために「益なし」としてこの場は引き下がった。

 5月28日の雨夜、蒲生隊はひそかに北側より川方城に忍び寄った。城の堀際まで進出してから、時の声を上げ、堀を乗り越えた。城方はあわてて対応するも、北の堀より乗り越えてくる大群に対処できず、戸木へと脱出した。守兵の死者15名という。(注2)

 6月3日、木造具康は主だったものを集め「寄せ手は大軍で四方より取り囲まれ、牧城、川方城、宮山城はみな無念にも攻め取られてしまった。明日は城外に出撃して蒲生隊と決戦せん」と主張した。朴木左京進はこれを諌めて、城に籠り敵を引きつけ徳川軍の来行を待ったほうが良いと言い、出陣は取りやめになった。

 織田信包と蒲生氏郷は会談し、「戸木城守備隊は精強で、強襲すれば損害が多く出るであろう」と兵糧攻めにすることに決した。有力なる部隊を残置して、織田信包は津城に引き上げた。蒲生氏郷も兵数千をともなって転戦した。

 7月、戸木城はたちまち食糧不足に陥った。家康に援助を求める(注3)とともに、城外に出て刈田を行った。攻め方はなぜか刈田を妨害しなかった。長らく一緒に働いていた隣邦の領主同士が相分かれて戦っていたため手加減されたのだろうか。しかし、小競り合いは頻発している。また7月末、旧主北畠具親を仲介として戸木城を降伏させようとしたが、木造方は拒否した。(注4)

 8月14日、蒲生氏郷隊は小倭城に攻め入ってこれを落とし(注5)、さらに佐田城を包囲。北畠具親の仲介により佐田城は開城し、小倭一帯は羽柴軍によって制圧された。このあと、蒲生氏郷は松ヶ島に帰陣した。

 攻め手の生ぬるい戦い方に憤慨したのか、蒲生氏郷は松ヶ島道筋に軍兵を置き、「もし木造勢が出撃してくればこれを撃破するので知らせるよう」命令した。9月15日夜、木造勢500-600名は小川表に苅田に出かけた。しかし周辺をパトロールしていた蒲生兵に発見されてしまう。蒲生兵は弓鉄砲をを打ち掛け、木造勢も反応して打ち返した。白兵戦となり、木造勢が蒲生兵を撃破した。

 氏郷は松ヶ島城で合図の鉄砲音を聞き、人数もそろえず若侍7,8騎のみ(!)をともなって出撃した。(注6)現場に着くやいなや、わずかな手勢のみで攻撃を仕掛けた。そのうち氏郷の軍勢が到着しだい合戦に加わり、木造勢を逆に撃破し、追い散らした。戸木城からも援軍が差し向けられたがすでに合戦は終わっており、城に引き上げた。木造勢の死者306名という。(注7)

 なおも木造勢は戸木城を固守していたが、10月末近辺の僧の仲介によりついに城を明けわたした。孤軍奮闘、半年以上にもわたり羽柴軍の有力なる部隊を引き付け続けた。そして、これにより伊勢方面は総崩れとなる。





1.藤田達生編(2008),pp.57-8
2.「木造記」
3.藤田達生編(2008),p.63
4.藤田達生編(2008),pp.64-5、「木造記」
5.「勢州軍記」によると、城方で打ち取られた首は数百に上るという。
6.乗馬による行軍として、1時間7ないし8キロと考えれば、着くまでに1時間半から2時間かかったと思われる。
7.「木造記」。「勢州軍記」では死者100名。
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