小沼治夫大佐(当時)『日露戦争に観る戦闘の実相(日本軍の能力特性観察)』1942年(陸大資料 非公開)より、「第一 攻撃能力に関する一般的観察」。小沼参謀が陸大教官時代に作成したこの論文は上司を驚かせ、ゆえに陸大資料として少数配布されるにとどまった。



攻撃能力に関する一般的観察

 日露戦争においてわが軍の行いし戦闘の大部分は陣地攻撃にして、窮極において敵陣地を占領する結果を得た。しかしその戦闘経過の仔細を考察すれば、敵が真面目に抵抗した場合における陣地攻撃の戦術的成績は香しきものと称し得ず。

 いま敵が側背の危険を感受して正面戦闘の進展せざるに先立ち退却するもの、および敵の退却作戦間に起こった軽戦等をのぞき、敵が真面目に抵抗した場合における昼間陣地攻撃の戦例を統計的に観察すれば、ほとんど全部は攻撃停滞するかまたは頓挫するものにして成功するものきわめて少なく、敵陣地の一角のみを奪取するものさえ多くない。

 そもそも日露戦争における彼我の会戦兵力を比較するに、ロシア軍がわが軍に比べ平均約一倍半の優勢を占めていたが、強大な第二線兵団等を控置する関係上、直接わが第一線師団と戦闘を交えた第一線兵力は平均してロシア軍の方がやや劣勢であった。このようにロシア軍が自らが持つ優勢兵力を有利に使用せず、わが軍のため誠に幸運な状況においてすら、わが第一線師団は一日平均約8%強(師団全歩兵の死傷率にして36戦例の統計的観察である。以下同じ。)の損傷をもって敵前平均6、700メートルの距離において攻撃行止りの状況を呈し、なかには3%以下の損傷をもって攻撃停頓、あるいは夕刻における師団予備隊および翼隊予備隊の合計が師団全歩兵の三分の一以上であるにもかかわらず攻撃行止りであったもの等がかなり多い現象は、当時おのおの止むを得ない事情があったとはいえ深く内省すべき点と認む。

もとより右のごとき状況裡にも鞍子嶺における第九師団長のごとく、あくまで積極的企図を放棄せず第一線の攻撃を督励しついに成功(一局部であるが)をもたらした戦例がある。しかし他面、師団長自身が攻撃開始後いくばくもなくして攻撃中止または後退を命じもしくは第一線の攻撃行止りを黙認するもの過半を占め、あるいは隣の部隊との連携を名目として積極的に行動しなかった例も相当多かったことも知らなければならない。

 このようにわが陣地攻撃の大部が攻撃行止りの状況を呈し、その成果が大きくなかった原因に至ってはもとより簡単に究めることができないが、火力価値の誤断に基づき戦闘経過の設想を誤り戦法上当を得なかった部分があるものは否定できない。また、これに付随して兵器、弾薬等の準備、とくに火砲の威力に足らなかったものによると観察することは失当ではないであろう。なお、先述した計面上の点においても砥礁陶治の余地がなきにしもあらざるは勿論である。

 ここに注意すべきは、精神力と物質力との総合宜しきを得たるや否やの問題なり。詳言すれば、難局に際し堅固なる意志を把持し無形的威力を極度に発揮するとともに、物質的威力の行使ことに重点の構成・火力の集中に遺憾なきを期すことができるか否か、また火力の効果を機を逸せず白兵が利用できるか否かの検討である。かの玉皇廟(遼陽会戦)、平家窩棚(奉天会戦)等のように旺盛なる士気のもとに、20%以上の損害を蒙りながら攻撃したにもかかわらず物質的威力現れなかったため奏功しなかった戦例(日没後敵の退却に尾し占領)と、付表第二のように20ないし100門に垂れんとする砲火を一陣地に指向し奮然起こって突入したとき始めて奏功した戦例とは、右の条理を立証するものというべし。しかしながら、これら奏功した戦例もほとんど全部が猫額の一局地を占領したことにとどまり、続いて戦果を拡張できず、または敵の退却を察知したあとも機を逸せず果敢なる追撃を行うことが希であったのは、今日より観てなお反省を促すべきことである。(付表第二の戦例中、敵陣地奪取そのものが直接原因にて敵全軍の退却を見るに至ったのは蘇牙屯の戦闘のみである。)

 報国七生を誓い、命令一下水火にも辞せざるべきはわれわれに課せられた精神訓練の目標である。否、わが国民の生まれながらにして抱懐する大和魂の神体である。そうであるからこそ付表第三が示すように、日露戦争におけるわが軍は欧州大戦における対露、独軍に比べ大いなる死傷に堪えて窮極の勝利を勝ちて得たのである。しかしながら、統帥の機務に参台するものとしては、よく実戦場裡におけるわが軍の実相を認識しなければならない。すなわち、わが軍といえども実行部隊に戦勝条件を付与せず、また戦法において当を得ない際は、死傷の累加にともない勝利に関して疑問を抱き、または死傷は軽減しようとし攻撃行止りのままときを移して任務の如何にかかわらず他部隊の戦況進張を待つ等消極化するものが多いことである。既述したように、戦力の根幹をなす精神力も物質力等をもって培養するの要ある所以を回想すべきである。

 かのドイツ軍が総兵力において劣勢または略同等なるにかかわらず、わが軍よりも少ない死傷をもってロシア軍を撃破ししかも偉大なる戦果を収めた原因は勿論幾多の戦争状況を異にするので簡単には究めがたいが、まずドイツ軍が主決戦方面において数に優れる条件のもとに有利なる戦闘を遂行していたのに反し、わが軍が欠乏した条件をもって困難な戦闘を実施したことは否めない。そして、ドイツ軍が主決戦方面に大いに優勢を占めることができたのは、彼我の特性能力を正解し爾他の正面に最小兵力をもって甘んじ危険なる戦況に打ち克ったことによるものである。タンネンベルク、マズールの戦捷は幾多の僥倖分子に恵まれたが、1915年ガリツィア地方およびナレウ湖畔に行われたドイツ軍の突破のごときは戦場全般の兵力において独軍必ずしも優勢ならざるに、その主決戦方面においては歩兵において二倍、砲兵において約四倍の優勢を占め、あまつさえ弾薬を豊富に準備し攻撃準備に入念を期したこと参考にすべきである。



付表第三より、日露戦争において全般的に日本軍は劣勢。旅順戦でも歩兵数において日本側が上回ったが、砲兵はロシア側の方が多い。

(私見)
日露戦争後、日本陸軍首脳部は砲兵の能力に疑問抱いた。あれだけ集めたのに効果が少なかった。逆にロシア兵の白兵戦は驚異であると。おそらくこのように思ったために根本主義(白兵至上主義)が登場する起因になったのだろうと思う。この論文によると、それは逆で火力が乏しかったために苦戦したのだとしている。

日露戦争公刊戦史は、日本軍の怯懦な振る舞いや苦戦をなるべく隠蔽しようとした。そのためのちの世代はこの嘘を信じてしまった。小沼論文がお蔵入りになったのもこのため。日本軍のお家芸ともいえる夜襲も、本当に勇気ある指揮官が飛び出さなくては進まず、しかもあとが続かぬ場合もあった。そして下士官、将校の甚大なる損害をともなうことを小沼論文は述べている。ここらへんが西浦進の、もっと日露戦争を真摯に研究すべきだったという言の理由だろうと思う。
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