『長久手町史』所載、「小牧御陣長湫御合戦記」読む。戦闘は鉄砲の撃ちかけから始まる。随意狙撃を行う(羽黒戦の鍋田内蔵允、長久手戦の森長可は狙撃により戦死)。備が乱れると見るや侍共が突撃する(騎乗、下馬はめいめい)。

小牧戦役中、長久手の戦い直後の秀吉軍は陣立書によると、総勢40,190を算する。この後、一ヶ月間中に61,500まで膨れ上がる。八月末、秀吉本隊をのぞく先手が49,000余(本隊約10,000とすれば、計約60,000)。長久手の別動隊恐らく15,000-16,000で、池田隊・森隊壊滅、秀次隊四散を勘案すれば、長久手の戦い生起前の秀吉本軍は約50,000だろう。


清正家の故老の話に、「乗馬襲撃は厚き備(そなえ)に対してすべし、薄き備に突入してしまえば必ず痛い目を観る」とある。思うに、「陣内に容れ、隊内に隊を容れ、人間に人を容れ」たる備のことを薄き備というのであろう。備に空処あるゆえ馬は必ず空処を行く。乗馬襲撃(馬入)はもともと人を倒すためであるのに、その空処に突入してしまえば敵を当て倒すことができない。そうなれば乗馬襲撃する意味がない。左右から敵が打つに便利であるゆえ、必ず討ち死にしてしまう。厚き備とは、混み合って統制のきかない(法なき)備である。そのような備は空処なきゆえ、馬は人を当て倒す。人と人とが押し合って身動きがとれない状態であるから、崩壊する。
荻生徂徠『鈐録』


私の祖父母は氏康の士大将尾崎常陸という者のむすめである。寛永のころまで生きていて常に言っていたことがある。「昔は馬鎧が武士の家には必ずあったのに、いまは誰も持っていない」と。乗馬襲撃(馬入)は関東の長技であったが、いまの時代には断ち失せて諸軍学にも記載がない。不完全であるとしか言いようがない。乗馬襲撃を止めるには土壁を作り柵を二重三重にそなえ、場合によっては槍柵(槍衾?)をもって止めなければならない。
荻生徂徠『鈐録』


徂徠がいうには、騎兵戦術が廃れたのは関東の武士が無学であったために文章として後世に伝わらなかったから。
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