大局的な流れを理解するために・・・


アレンビー将軍は、海岸にそって防御しているガザ方面のトルコ第8軍に対して攻撃を続けた。トルコ第7軍は側面からの攻撃を心配して、逐次撤退していった。

アレンビーは、英ロイド・ジョージ首相の要望に基づき、クリスマスまでのエルサレム占領を目指した。

1917年11月13日のMughar Ridgeの戦いの後、戦力強化のために一旦停止してから、アレンビー軍は、ユダヤヒルズを通して東方にエルサレムに向かって進軍した。
イギリス軍右翼隊がユダヤヒルズに向かって進む間、その左翼隊はヤッファで防御の態勢をとった。

トルコ電撃軍集団ファルケンハイン司令官は、若干の増援を得て第7軍方面において小反撃を行った。
イギリス軍を止めることは叶わなかったが、進撃を鈍らせることには成功した。

12月8日、英チェットワード将軍指揮下の第20軍団はエルサレム攻撃を始めた。迎え撃つのはアリー・フアード・パシャの第20軍団である。(トルコ軍師団の兵数は、よく分からないが大体5千以下と少ない。戸籍制度がむちゃくちゃだったせいだろうか。アラブ人たちはキリスト教国に支配されるよりは、同じイスラームのオスマントルコのほうがましと思っていたため、多少はやる気があったようだ。欧州戦線重視とはいえ、バルカン半島に2個トルコ軍師団なんか送らなくてもよかったのではと思ったりする。)

ファルケンハインは激しい攻防戦となって聖都が荒廃するのを恐れたため、増援を送らなかった。

一日の戦闘の後エルサレムは陥落。12月11日、アレンビーはエルサレムに入城した。

彼は戒厳令を発し、キリスト教徒、イスラム教徒とユダヤ教徒による混乱が起こらないよう、都市の中に、そして、ベツレヘムに警備員を数ポイントに配置した。

ファルケンハインにエルサレム陥落の責任の一端を押し付けられたクレッセンシュタインは、トルコ第8軍司令官を解任された。

10月31日から12月31日の間に、電撃軍集団は死傷者25、337名で、そのうち3,540名が戦死した。
英エジプト遠征軍は約18,000名の死傷者を出した。

エルサレム陥落は、西部戦線での連合軍攻勢の失敗、リガやカポレットでの大敗と暗いニュースばかりであった連合国側の胸を救うような戦果となったのである。



Secret

TrackBackURL
→http://hikasuke333.blog113.fc2.com/tb.php/24-8bb33d04