別ソースでちょっと前に書きためていた物
拙い英語力のため、やっぱり食い違うところが・・・


1917年3月と4月のガザ攻撃の失敗の後、アーチバルド・マレイ卿は更迭され、エドモンド・アレンビー将軍が
新しい英エジプト遠征軍の指揮官となった。
英ロイドジョージ首相はアレンビーにクリスマスまでにエルサレムを占領することを課した。

アレンビーはまず最初に彼の司令部をカイロの第一級ホテルから前線へと前進させ、イギリス軍の士気を上げようとした。
次に兵員、火砲、毒ガス、戦車の増強に努めた。
これによって軽騎兵を含む7コ歩兵師団、計88,000名を集めた。

トルコ軍はパレスチナ方面にY?ld?r?m軍集団を配置しており、これは第4軍、第7軍、第8軍から成っていた。
トルコ第7軍は18,350名を有し、第8軍は6,572名配属されていたが、第4軍はないも同然のようなものであった。
トルコ軍はよい守備位置にいたが、イギリス軍はトルコより優れた火砲を持ち海軍の支援も受けられた。
また、相対的にイギリス軍は質と量の両方において優れた騎兵軍団を擁していた。

第7軍(ドイツ人フォン・クレス大佐指揮)はガザに、第8軍(Fevzi Pa?a指揮)はベルシエバに陣地を置いていた。
第8軍の2コ師団は予備に回されていたため、ベルシエバにいたのは3,500名だけだった。

エルサレムを落とすためにはガザ―ベルシエバのトルコ防御線を突破するのが必要不可欠である。
攻撃計画はChetwode将軍によって立てられた。
この計画は第2次ガザ戦のように正面攻撃せず、ベールシェバ付近の薄い防御線を急襲するものだった。
ガザの防備は強固だが、ベルシエバ付近の防備は薄い。
これはトルコ軍が、この付近ではベルシエバの井戸以外では安全な水を得ることが難しく、これによって乗馬襲撃作戦は阻害されてしまうであろうと考えたためだった。

つまり攻撃計画で最も重要な要素は、ベルシエバの水場を早期に占領することにある。
実際、第1回と第2回のガザ攻撃失敗の原因は水が足りなくなってしまったというのが多分にあった。

この企図を隠すため3コ師団をガザ正面に配し、218門もの重砲で6日間砲撃した。
また、新しく配備されたイギリス軍戦闘機はドイツ軍機を圧倒し、英軍部隊の発見を遅らせた。

1917年10月31日の朝、イギリス軍はベルシエバ進攻を開始した。

軽騎兵軍団は右翼側面からベルシエバに進撃し、歩兵部隊はその正面に前進した。
乗馬部隊はベルシエバ東、トルコ陣地最先端に攻撃を始めた。
アンザック乗馬師団の攻撃はTel-es-Saba陣地で頓挫し、これが奪取される頃には作戦予定に大きな遅れをきたしていた。

オーストラリア第4騎兵連隊と第11騎兵連隊へベルシエバへの乗馬突撃の命令が下された。
トルコ軍守備隊は遠距離から銃撃したが、広く分散して突撃していたオーストラリア騎兵には効果的ではなかった。
応戦したトルコ軍機関銃は騎砲兵中隊によって速やかに破壊され、英騎兵部隊はベルシエバに突入してこれを陥落させた。
トルコ軍は町にある井戸17のうちなんとか2つだけ破壊して退却した。
このベルシエバの戦いによってトルコ軍士官38名、兵700名が捕虜となり、乗馬突撃中オーストラリア兵31名が戦死した。

ベルシエバ陥落後、トルコ軍防御線は崩壊し始める。

トルコ第7軍はTel es Sheriaに退却した。すかさずアレンビーは攻撃して11月7日Tel es Sheriaを奪取した。
アレンビーはガザの第8軍を包囲することを望んでいたが第8軍は退却し、11月7日ついにガザは陥落した。

この2日後にトルコ第8軍は20キロにわたって退却し、Y?ld?r?m軍集団の指揮所はエルサレムに退いた。
第7軍司令部はベツヘレムBethlehemへ移ることとなった。



参考
http://www.firstworldwar.com/battles/gaza3.htm
http://www.turkeyswar.com/campaigns/palestine3.htm

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