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パレスチナで英エジプト遠征軍司令官となる前、エドムンド・アレンビーは西部戦線で英第3軍を指揮していました。これが1917年アラスの戦いのときイギリス大陸派遣軍司令官ダグラス・ヘイグと意見衝突してしまい、解任されてしまったのです。失意のうちに…とは分かりませんが、まあ、今度はエジプトに行ってオスマントルコ軍をやっつけて来いと言われたのでありました。

アレンビーはヘイグに似て内向的なほうだったようです。その癇癪持ちから「猛牛Bull」とあだ名されています。彼はアフガン戦争、ボーア戦争などと数々の植民地戦争に参加していました。第1次大戦がはじまってからは西部戦線で活躍していましたが、このパレスチナ・キャンペーンは彼に意外な活躍の場を与えるのでした。なぜかは分かりませんが、アレンビーの行った1918年のメギット戦は今アメリカ海兵隊が推進している「機略戦Maneuver Warwafe」の一戦例として挙げられています。

1917年6月27日アレンビーはエジプトに到着。彼は前任者のアーチバルド・マレイ将軍と違って軍紀に厳しく、中東のくそ暑い中でもちゃんとした服装でいるようにと皆に要求しました。なんだかパットン将軍を思い浮かべてしまいます。彼は車と馬でそこら中を見回るものですから、兵士たちは困ってしまって、アレンビーが来た時には「Bloody Bull's Loose(くそったれ猛牛の放任???)」という意味でBBLという暗号文を使うことが考案されました。あるとき、アレンビーは隣の部隊にこの暗号文が送られているのに気がついて、その意味を尋ねました。通信兵は弱ったように「これは『牛が死んでしまったBull broken loose』というちょっとした不運な事故について触れているのであります。」と答えました。アレンビーはほとんど疑いなく本当のことに気づいたでしょうが、このことを問題にはしませんでした。

6月の終わりこと、ある視察から帰ってきたとき、すべての兵士の親が最も恐れているメッセージがアレンビーに届きました。それは西部戦線で戦っていた彼の唯一の息子である、マイケルが砲弾の破片にやられて死んでしまったのです。彼はすぐに妻に手紙を書きました。

「親愛なる妻へ、私は君とともにいたい。しかし私は君が大なる勇気を内に秘めているのを知っている。この耐えがたい精神的打撃に耐え抜く強さがあるだろう。私の思いは君とマイケルでいっぱいだ。君のそばにいたい。息子との思い出が楽しく感じられる。息子が生まれてから死ぬまで、彼が生きてきた人生が変わったりほかの生き方があったらと願ったことは一日たりともない・・・息子が私といるとき、あの子はいつも変わらない。友達のような仲で、けれどもありのままで、会うときと別れるとき子供のときと同じように私にキスをしてくれた。」

猛牛といわれるような人間にしてはいささか、感傷的な手紙でありました。


David R. Woodward著
Hell in the Holy Land: World War I in the Middle East

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